2015年12月30日水曜日

本年もありがとうございました。

[巻]角海浜からの夕陽(12月撮影)

今年もあっという間に年の瀬ですね。わたしはまだ編集室の机にへばりついて細かい仕事を重ねていました。先ほどバックナンバー三冊の注文があり、早速、発送してきました。制作も営業も、一言一言、一部一部、とにかくこつこつ積み重ねるしかないですね。

暮れ行く年を振り返って、一言だけ御礼のご挨拶です。

二〇一五年も弊誌をご愛読、ご支援いただきましたこと感謝申し上げます。ありがとうございました。

一冊の雑誌を作るのに企画、取材、撮影、編集、デザイン、印刷、納品、経理、宣伝とさまざまな仕事がありますが、ご縁をいただいた皆様のお陰でなんとか制作を続けることができました。取材に協力いただきました皆様、広告主の皆様、取り扱い店舗の皆様、様々なかたちで制作に助言・協力いただきました皆様、家族、友人にあらためて感謝いたします。

今年は一月に『vol.008【日本海編】』を発行。その後、県内外へ納品回りを行い、四月から『vol.009【寺泊・弥彦・岩室・巻編】』の取材に入りました。年内に発行できたらと考えていましたが、かないませんでした。編者の段取りの悪さ、仕事の遅さゆえです。年内発行を待っていいただいた方には申し訳ありませんでした。前号よりも紙数を減らしてまとめようと思っていましたが、結局、同程度のボリュームになりそうです。制作状況は七〜八割といったところです。残りの制作も鋭意進めて参ります。

今年だけを振り返ってみても、編集者やインタビュアーとして、また経営者としても、稚拙極まりないことを痛感する局面が多々ありました。翌二〇一六年も向上心と好奇心をもって制作を続けていきたいと思います。

まだまだ未熟で無知な編者ですが、今後とも変わらぬご支援、ご鞭撻賜りますようよろしくお願い申し上げます。

来る年が、皆様にとって、健やかな一年となるよう、町の片隅の小さな編集室から祈っています。

2015年12月19日土曜日

「BOOKS f3」さん(沼垂東・新潟)新規開店。

元時計・眼鏡屋さんを改装した店舗

BOOKS f3」さん(沼垂東・新潟)が本日11:00、新規開店します。写真・アート関係の新刊と古書を扱うお店です。

Life-mag.も取り扱いいただけるとのことで、昨日、納品に伺いました。ぱっと店内をながめただけでも気になる本がたくさんあって、めくり出したら、居座ってしまいそうだったので、挨拶とすこしの世間話だけしてきました。

店主・小倉さんは、10年ほど前、高校生の頃にみた牛腸茂雄(加茂出身)の展示会で写真の魅力にはまっていったそうです。カウンターでは珈琲と紅茶を注文することができます。気になる写真集をじっくりと見つけてみてはいかがでしょうか。

[WEB]http://booksf3.com/





開店準備中に伺ったときのツイート▼


2015年12月18日金曜日

次号編集の長い佳境であらためて感じていること

「やぁ。きみには見えてるんだよね? 感じてるんだよね?」。

取材で各地を訪ね歩いていると、過去、その土地に生きた者たちの声なき声を聞くことがある。うまく言えないけれど、それはオバケが見えるという霊感とは違った意味で。

その声は、誌面をつくっていくにあたって、予定していない要請となる場合も多々ある。締め切りがとか、誌面の都合で、といった言い訳を(自分の中で)して、聞こえなかったこと、見えなかったことにして済ませたいなという衝動にかられることもある。

けれど、編集発行人が自分なので、1ページ足せないわけじゃないし、もう1人会って話を聞けないわけじゃない。結局はその声にしたがって、取材制作を進めることになる。

佐渡取材の時もとくにそれを感じた。郷土史家の山本修巳さんへのインタビューでは、「佐渡には〈呪い〉の歴史もあると思う。でもなにか救いはないのか」と聞いたら、「知ることが〈弔う〉ことになると思う」と答えていただいた。それにはとくに共感した。

そういうこともあって、以後、私はこの雑誌の原稿を書くことの大きな意味のひとつとして〈弔う〉ことを大切にしている。雑誌という形にして、ふたたび知らせること、掘り起こすこと、残すことはそういう仕事でもあるんだと思っている。

さらにいうと、その声とは、〈死者からの視線〉でもあり〈縁を結ぶこと〉だとも思っている。その声に従って、取材を進めると思いがけない人との出会いがあったり、記事にしたものが誰かと誰かを結ぶことになったりするからだ。

その声は私に言う、「聞こえた? わかるでしょう。わたしたちは、あなたたちと生きていることを。あなたたちの中に生きていることを」。

だから、私も祈る。つくってきた雑誌、これからできる雑誌が、この先の、未来に生きる人びとの中にも生きてくれることを。

書き過ぎたかなぁ...。でも、いま生きている人が買ってくれなきゃ商売にならないんだけどね。経営はあいかわらず厳しいし。次号の取材も長い佳境に入っていていくなかで、あらためてそんなことを感じてます。次号のあとがきもきっとこんなことを書くと思う。早いけど、、、もう先に言っておきます。

ふたたび間瀬銅山へ、燕市産業史料館の齋藤さんと

沢を歩いて散策中

しばらくあたたかい日が続いた新潟でしたが、一転、冬の寒さがやってきました。昨日(12/17)は、間瀬銅山にいってきました。

間瀬銅山で採掘された銅は、燕の鎚起銅器の原材料としても使われていた歴史があり、その関係について詳しく伺いたく一昨日(12/16)燕市産業史料館の学芸員・齋藤優介さんを訪ねました。齋藤さんもちょうど原稿執筆中で、資料をみせてもらいながら、話を伺いました。

4月の玉川堂さんの社員研修にも一緒に参加していたのですが、再度、入口付近だけでも同行してもらえないかとお願いしたら、快くオーケー。早速、行くことに。

ただ、天気は雪。日本海から吹き付ける冷気と、鉱山跡に漂う霊気のなか、1時間半ちかく散策しました。「せっかくの休日にこんなところに連れ出してすみませんね〜m(_ _ )m」と恐縮しながら言うと、齋藤さんは「いやいや、俺はぜんぜん大丈夫。いや〜、それにしてもいい雰囲気だね〜ヽ( ´¬`)ノ」と。さすが、です。

鉱石から銅を取り出したあとのクズが投げられてできた「ボタ山」にいくと、すぐにその銅山産業の遺物が転がっているんですね。ひとりで来たら、何気なしに歩いて帰っていたでしょう。

銅を取り出した後の鉱石があちこちに転がっています
銅につく錆の「緑青(ろくしょう)」がふいています

間瀬銅山を歩いた後は、近くの旅館を訪ねたり、間瀬の自治会長さん宅を訪ねたりもしました。間瀬銅山に関しては資料がすくないなぁと思っていましたが、地元の方に聞くと、生きた歴史がみえてきました。案内、お付き合いいただいた齋藤さんには感謝です。ありがとうございました。

2015年12月12日土曜日

『ひらく美術』の備忘録と「鉢の石仏」で見たもの



こへび隊」の活動をしていた友人から借りた北川フラムさんの『ひらく美術——地域と人間のつながりを取り戻す』(ちくま新書)。取材の移動の合間に読んでいたんですが、後半部を編集室で読みきりました。印象に残った箇所を備忘録として書いておきます。

フラムさんがプロジェクトを考える際や会議の席上で伝えていたこと、

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①アートは明らかに地域の特徴を表すだろう。そのためには、地域をとにかくよく回る。この地域が歴史的、経済的にどう扱われてきたのかをはっきりと摑もう。
②どのような計画が将来活きてくるかはわからない。特に国策のもとにある農業の展望はわからない。しかし農業をするということはベースにしよう。
③少なくとも日々の生活で、心爽やかな思いがのこるようなプロジェクトを行おう。
④半年のあいだ豪雪のなかにいた人びとにとって、集落というコミュニティは絶対的なことだ。そのリアリティを大切にしよう。
⑤プロジェクトの成果は短期的には決して測れない。しかし3年に1回の短期的な評価にはギリギリ応えなくてはならない。
⑥人が来ればいいというものではない。しかし高踏的、専門ジャンルの評価を気にしていては何もやれない。そのベースをどこにとるかが重要だ。(149p.-150p.)
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とくに共感したところは以下です。これからの地域はどうあるべきかという箇所で、

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「本来の地政学的な、地形的・気象的な特質と、地域単位で考えられてきた文化を活かさなければいけない」(161p.)
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いま取材・制作している『LIFE-mag.vol.009【寺泊・弥彦・岩室・巻編】』の問題意識とも通じるものを感じ、(勝手ながら)背中を押されたようにも思いました。この地域は、長岡市の[寺泊]、弥彦村の[弥彦]、新潟市の[岩室]と[巻]です。しかし、地形的には弥彦山系の麓一帯と考えることもできるし、彌彦神社の御祭神が[寺泊]から上陸したこと、御祭神の三世は[巻]福井地区に住まわれたこと、五世は[岩室]樋曽地区に住まわれたという結びつきもあります。そして、中世には「北陸道」として、江戸から明治には「北国街道」として佐渡金山、弥彦詣でや新潟湊を目指す人びとの往来がこの地域にあり、周辺は宿場町としても栄えました。

現在は行政区画も別々で、この地域を一連の流れで取り上げている媒体もすくないようなので、わずかでも(古くて)新鮮な視点を提供できたらなと思っています。はやく発刊しろよという、声なき声も聞こえてくるようですが...、だいぶまとまってきました。もうすこしです。

話を本に戻して。さらに上記の箇所に続く段落で、芸術祭を運営するにあたって「行政」や「政治」と向き合い感じてきた葛藤が記されていました。フラムさんによる、本質をつく指摘だと思いました。日本の各都市・各地域は、米国流のグローバリズムの中で効率化され、実質的な文化単位を失ってきたとした上で、

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それが役所の仕組みになっているし、小選挙区制というおよそ民主主義と相いれない政治と、文化単位でできていない行政単位のなかで柔軟な対応ができなくなっています。単年度決算と年度内予算消化で長期的計画がなくなり、お金の無駄が多くなります。これに、思いつき、選挙の人気取りの予算ばら撒きが重なります。
しかし、志ある人はどんな組織にもいるはずで、私たちは正攻法で、将来のヴィジョンを示し続け、理解できる活動をし続けなければいけないと思います。
(中略)
革命の道筋がない以上、人間の本性の核に語り続け、行政と仕事をし続けることしかありません。そのためのプロフェッショナリズムを持ち続けることしかありません。(161p.-162p.)
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私たちはいま、どんな時代、どんな状況を生きているのか、その視点をクリアにしてくれるような指摘だと思いました。「里山」を舞台に開催される芸術祭を通じてみた、フラムさんの地域論/日本論、おすすめです。

そういえば、2年半前に北書店さん(医学町通・新潟)で開催されたトークを聞きにいったときのメモがありました【こちら】。相変わらずの駄文ですが、参考までに。

以下は、駄文に続き、蛇足です。

絵本と木の実の美術館の玄関に貼ってあったお札

2000年にはじまった「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」、今年は第6回でした。私の暮らす新潟市内からも友人・知人が過去開催会に増して、越後妻有の土地を訪ねたようで、会期中、フェイスブックのタイムラインでずいぶん写真をみた気がします。

私は会期中には訪ねる機会がありませんでしたが、会期前の6月にたまたま家族で十日町に行きました。「絵本と木の実の美術館」に行くと、田島征三さんが偶然いらっしゃっていて、声をかけて記念撮影をしてもらいました。

会期前でしたが、ヤギの入園式?のようなイベントもやっていて大勢の人もいました。

調べたら田島さんの絵本に
でてくる「しずか」でした

その道中に「鉢の石仏」という看板をみつけてしばらく散策。ちょうど息子が『もののけ姫』にハマっていたので、そんな世界を疑似体験したのでした。この美術館がなければ、まず行かないような、芸術祭が導いてくれた場所でした。

江戸中期、大阪のお坊さんがこの地で不思議な「天燈」をみたという

200体ほどの石仏があります

そして、久しぶりに写真を見返したら(!)

伊夜日子大神(!)

あれ! 彌彦神社御祭神の別名・伊夜日子大神とかかれた石像が写っていました。この地にも彌彦神社への信仰があったのでしょうか。

2015年12月10日木曜日

国上山麓を歩いて




月〜水曜と【寺泊・弥彦・岩室・巻】を歩き回っていました。新潟の冬にはめずらしく連日、晴れ。私は日頃の運動不足もあって筋肉痛です。

火曜は[寺泊]へ取材依頼にいったのですが、うまく話が進まず...。また出直そうと気を取り直して、国上山周辺を歩いてから帰りました。

良寛さんゆかりの地・国上寺の麓地域を歩いていると、道を塞がんばかりの大きな岩、ぴったりと張り付く樹木、そしてその上には祠。これはなんなんだろうと思うも、隣家は空家。周辺のお宅二軒ほど声をかけてみました。

すると、、、その昔、西行が歩いてきた際、この岩をみて道を引き返したという「西行返しの岩」だとか。数年前、山道を整備する際もサワリ(祟り)があると悪いからと道を曲げて整備したとか。きっとなにか信仰があったんだと思いますが、上の祠に関しては詳しいことはわかりませんでした。

情報をお持ちの方がいましたらぜひ教えていただけたらと思います。

今日は編集室にいられそうなので、たまった取材メモと写真データを誌面に落とし込み、残りの取材段取りなど進めていきたいと思います。

2015年12月5日土曜日

北国街道の道筋を調べて。岩室民俗史料館の棚橋宏さんを訪ねる。

猿が馬場の峠から野積へ

一昨日、エリアマップに入れる「北国街道」の道筋について教えを乞うため[岩室]の岩室民俗史料館へ棚橋宏さんを訪ねました。新潟市に合併される前に「岩室村文化財保護審議委員」を務めた方です。夏にお会いして以来、二回目でした。こちらの求めに気さくに応じていただき、ご自身がまとめた資料も快く提供してくださいました。

ただ、[弥彦]から[寺泊]への道筋でやや不明な点があり、やはり自分の足でみるのが一番ということで、その後に確かめにいってきました。[弥彦]の麓地区から八枚沢林道をのぼって、薮に入ったり、沢の名前をたしかめたり。この時期、ほとんど人が入らないような場所に、雨の中、ひとりの男が彷徨う姿は傍からみたら不気味だったでしょう。

舗装された道路からすこし入ると、確かに人びとの往来があったであろうその足跡がみつかるんですね...。「ブラタモリ」をみてると時々、タモリさんが「道は覚えてるんですよね〜」と言いますが「まさに!」と思いました。

最後は、猿が馬場の峠から[寺泊]野積地区に出て新潟へ戻りました。数カ所の修正点がみつかりました。よかった。やはり、地元の人の話を聞くこと、現場を歩くこと、見ることが大切ですね。