2011年5月28日土曜日

花は咲く場所を選びはしない

---
借りている駐車場の近く、
アスファルトの隙間から顔をのぞかせていた花。
パソコンの手元で挿してみる。

新緑の候 陽気な顔でこちらを見つめる。

---
ちょうど机回りを整理していたところ、
学生時代に聴いていたCDが出てきてかけてみる。


STANCE PUNKS「クソッタレ解放区〜クソッタレ2〜」2002年4月10日リリース


「今しか見えないどれだけの言葉が
僕らの目の前を駆け抜けたんだろう
花は咲く場所を選びはしないんだ
さあ今だ立ち上がれ
僕らクソッタレだ!」

---
陽気な花と情熱的な音楽で机を飾る。

今年は暦の入梅より少し早く、梅雨となりそうですね。

山の恵みをいただく


今年は山菜の「こごみ」をたくさん食べました。
マヨネーズ&醤油で食べるともういくらでも(笑)。
自宅台所のコンロの焦げが見えて恥ずかしいですが...
よく茹でて食べました。 



こちらは『職場の教養』2011年4月号。
会社が社団法人倫理研究所の会員となっていると
会社で手に取ったことのある人もいるはず。
朝礼で読み上げたりするのかな?

「質の良い仕事は 質の良い食事から」と題して
後半部分に特集があります。

〜山野に自生する山菜のパワー〜 とのキャッチ

たしかに最近、感じたんですが、
野菜や山菜などの量を多くして、いつもより少なめの食事をすると
その後、頭の働きや身体の動きがいい気がします。

この冊子の発行元支部である、
新潟県倫理法人会は長岡市に本部を置いています。
県内各支部ごとにおいても活発な活動をしているようです。
私はたまたま出かけた先で一部いただきました。

2011年5月11日水曜日

「寺子屋」あるいは「私塾」について009 -補-

4月からずっとドタバタしていて、GW中も続いた。ある日、右のこめかみと後頭部の頭痛が強くなり、さすがにまずいなと思い、その日は早めに就寝。ようやく一息。


---
私は中学時代や高校時代の授業に面白さを感じることなく、「ドカベン」や「H2」、「ろくでなしブルース」、「こち亀」(80巻くらいまでは読破していた笑)など少年漫画を読みふけって過ごしてきた。もちろんテストの成績も悪く、部活にも所属していないとくれば、「学校や先生」からの評価はよろしくなかっただろう。


「それは学生時代、お前の教養と感性の乏しさだ!」との批判は一手に引き受けることにする。それでも文章を続ける。


しかし、私の場合は「学校や先生」に反抗したいという思いはまったくなかった。ただ、「学校や先生」から学ぶコトへの喜びや興奮、面白さを感じることがなかっただけである。
幸いにも多くの友人に恵まれ、学外で熱中できる趣味もあり、そちらに情熱と時間をかたむけてきた。これは幸運だった。


それでも今回、江戸期の「寺子屋」や「私塾」に惹かれたのはなぜだろう?
「なんだか楽しそうだな、羨ましいな」、シンプルにこう思ったからだ。
いま自分の住む街にも、学ぶ興奮に浸り、魅力ある講師を迎えられる場があればいいな!!
切望します!!(お前が作れよと言われそうだが...)


前掲記事以外に知見したことはないし、私の過ごした学校生活は10年も前になる、今の学校教育が私の受けたものより、学ぶ喜びと興奮に満ちたものに改善されていることを願う。

「寺子屋」あるいは「私塾」について008


「寺子屋」と「私塾」の引用と箇条書きメモもひと区切りにします。

伊東多三郎氏著
『近世史の研究 第三冊 文化論・生活論・学問論・史学論』
株式会社吉川弘文館・昭和58年6月1日発行
定価7,800円



---
(298p.)庶民の生かじり学問は家業を怠り、身を誤るもとだから、学問に深入りし凝ることは無用だという考えが、庶民生活の常識ともなっていた。

江戸期の思想家、石田梅岩はこう応える。
「学問をして人柄が悪くなるようなのは正しい学問でないからだ、真の学問はそのような悪事を直すものだ、真の学問の道は第一に身を敬み、義を以て君を貴び、仁愛を以て父母に仕え、信を以て友と交り、広く人を愛し、貧窮の人を愍み、功あれど誇らず、衣類諸道具等に至まで倹約を守って美麗をなさず、家業に疎からず、財宝は入るを計って出すことを知り、法を守って家を治めるものだという。」

国学者・鈴木雅之の民政要論「農民の不幸は貧と愚とによるのであるから、これを救うには公正な政治と経済とが必要であるが、なお根本対策としては、真正の学問の振興が大事である」


(322p.)結論「その荷担者は郷村社会の支配勢力をなす富商・地主層であり、彼等が武士階級と一般庶民階級との間に中堅層として確実に勢力を築いたことを考え合わせると、彼等が推進せる郷村社会の学問教育は近世学術史上だけでなく、封建制度衰亡史上にも深い関係を持つものである。何故なら、この学問と教育との成果が郷村社会の産業経済の発達の精神的・技術的基盤を形成し、更に尊攘思想の点火によって政治的意識の自覚へ燃え上がる要素を含んでいたからである。」

---
いくつかの文献をあたってみて、江戸期の教育の豊かさを垣間見た。
調べることの面白さを改めて体験した。

これはタイトルにある「寺子屋」や「私塾」について正確に記すことなく、私の偏った記事とメモのまま、ひと区切りとする。

越後の国・現代の新潟に伊東氏のいうところの教育に理解のある「富商・地主」はいないものか?伊東氏が存命ならば、ぜひとも伺ってみたく思う。
現代の新潟においても多くの富を築いた社長は多い。リーマンショック以後の新聞記事の経済欄を見ていても過去最高益を出したとの記事は散見される。地方銀行や建設業ももちろんそのひとつ。

閉塞しきりの日本を変えていくのも、志の高い政治家や優等生の行政マン、というよりは地方ごとにいるリーダー「富商・地主」の果たすべき役割は多いように思う。

「寺子屋」あるいは「私塾」について007

号が変わって、第三冊です。


伊東多三郎氏の『近世史の研究 第三冊 文化論・生活論・学問論・史学論』株式会社吉川弘文館が昭和58年6月1日発行。


定価7,800円とお高いので、もちろん図書館。正確には新潟市中央図書館ほんぽーとのお世話になりました。


以下に箇条書きメモ。


---
第一部・文化論において、江戸後期の日本北方開拓に発揮された探検的精神を取り上げた項。


(67p.)一国民・一民族の文化はその民族性や自然的立地条件に依存するから、その歴史過程で政治的・経済的条件の変化によって盛衰、または発展退化が起こったとしても、その特性にまで本質的な変化を引き起こすことは少ない。それよりもむしろ他国民・異民族との接触・交渉によって、国民的文化圏・民族的伝統に大きな変化が起こる場合がある。もし内に政治的・経済的条件の変化が暖慢であり、外に対外的関係の影響が少ないときには、一国民・一民族の文化はその文化圏の限界の内部で自己完了的に成熟するままに、発展の新芽を伸ばすことなく立ち腐れの状態を呈すこともある。特に日本文化史では政治的・経済的条件の変化が急激ではなかったから、外国との交渉、外来文化の摂取が既成文化の自己完了性を打破してさらに発展と進歩への刺激的・栄養素となっている。既成文化の温床の上で眠りこもうとする民族の精神が対外関係の刺激によって緊張し、活力を回復する過程が、日本文化史の一傾向であることを考えれば、文化史研究の問題として対外関係の重要性は説明するまでもない。


---
非常に示唆に富む文章である。この段落が照らしている事例は数知れないと思う。
あぁ、この段落に出会えて良かった。
なんだか久々にそう思える文章でした。


異文化との接触において、渡辺京二氏の『逝きし世の面影』平凡社ライブラリーが興味深いなと思っていたところ。
1,900円か、本代がかさんで生活が...。
線をひいたり、たまに読み返したりするので、ついつい「買って読む」ほうを選択しがちです。

「寺子屋」あるいは「私塾」について006


引き続き、
株式会社吉川弘文館
昭和57年7月10日発行
『近世史の研究 第二冊 国学と洋学』
伊東多三郎氏著


箇条書きメモ。

---
江戸期の国学者として大きな影響を与えた者として平田篤胤(江戸後期の国学者)号を気吹舎をあげている。

(160p.)「地方の庄屋・地主層その他の豪家の郷村生活における勢力は、幕末に近付くにしたがい、武士の支配力の弛緩と反比例して、自主的態勢を示すのであって、之が文化の方面にも現れて、学問の普及が著しかったが、国家意識開明の一般的風潮と共に自らその方向を辿る勢をも現して居る。その場合、国学は古典の学でありながら、彼等の生活意識に近接した要素を持ち運んだのである。それは何か。整然たる理論体系としてでなく、生活意識、又は生活感情として実践的意義を持つ神祇信仰と古典文学である。いわゆる敬神崇祖の風が郷村生活の秩序、例えば臨時恒例の郷村行事に示される協同生活に溶け込んで居る状態の下では、この生活様式を通じて、国学は庶民生活と一見疎遠のごとくして実は親近の関係を持つことができた。そしてこの関係は、直ちに郷土の感情と連なるのである。又我が国の古典、特に歌道を通じて、伝統的文化と結び付き、復古思想の発展の道が開かれるのであった。」

(162p.)篤胤の学統ではない国学者として、西蒲原郡岩室の庄屋の高島正興が上げられている。寛政11年に生まれ、安政3年に歿した人である。歌道、書画、茶湯、生花、兵法、典礼等に通じて、それにもまして、敬神尊皇の志に厚く、四方に周遊し、諸社の由緒を調査して宮柱三巻を著し、皇居の朽廃を嘆いて修築の費を献じ、嘉永2年、大神宮の遷宮式典に参列して神鏡を受けて帰郷し、神明社を建てて奉納した。また、対外関係の紛糾を憂えて外国事情を研究し、異国事略四巻を著述している。それ以外にも、神代直語一巻、蛇足六巻、千広の浜つと三巻、万葉抄三巻、祭祀の古実一巻、伊勢道の記三巻、歌集四巻がある。


(179p.要約)江戸時代は庶民文化が発達した時代である。一般には大都市の消費生活に花咲いた芸能的文化にばかり注意する偏向がある。しかし、庶民文化・地方文化は近代文化の同質性・一元性とは違い、各地方の生活と文化は割拠性・身分制により多元性・異質性を内に含む封建時代であった。


---
ふむふむと興味深く読んだ。
キーワードとして、
「神祇信仰と古典文学」、
「岩室の庄屋の高島正興」、
「多元性・異質性を内に含む封建時代」、
についてはもう少し追いかけてみたい。

「寺子屋」あるいは「私塾」について005

株式会社吉川弘文館より昭和57年7月10日発行された『近世史の研究 第二冊 国学と洋学』著者は伊東多三郎氏。明治42年の新潟県長岡市生まれ、著作が発行されたときは埼玉県大宮市に住まわれていたそうです。東京帝国大学名誉教授。
定価5,800円、高価な本なのでもちろん図書館で借りて読むことにした。
以下に要約メモ。
段落ごとにつながりがない箇所もあるので、箇条書きメモとして記します。

---
国学は江戸時代に興った学問・思想体系。
しかし、江戸期に学問といえば大陸より受け入れられた儒学とされていた。
また宗教でも仏教が最も盛んで、これも起源は印度であった。
そこに、これ等が渡来する以前の日本の思想の顕現を計ることを目的として国学は興った。国学者は古事記・日本書紀・万葉集などを研究した。

(148p,)「越後の文化は信濃川・阿賀野川二代河川の流域に開けた広大な越後平野の土壌を度外視しては語ることができない。越後平野のように、水田農業が典型的に発達した地方では、新田開発、水利施設の整備、村落の増加、地主勢力の擡頭、地域的中心都市の簇生などを条件として、独自の文化史的性格をはっきり見ることができる。」

江戸初期の越後の石高は40数万石が幕末には100数十万石に増加。村落の数で言えば、初期に3000余村だったのが、幕末には4000を遙かに超えた。越後の興隆に教育が果たした役割を評し、そして、庄屋・地主層が担った役割をこう分析する。

(149p,)「彼等の大部分は、その土地の草分けとして根強い潜勢力を持ち、数代にわたって郷村社会の家長的権威と徳望とを蓄積して来たのであるが、それはただ社会・経済生活の方面でなく、信仰・学芸の方面においても顕著である。或いは居村に神社を勧請し、寺院を建立して郷民の信仰の中心としたり、或いは家塾を開いて郷党の子弟の教育に努めたり、或いは来遊の学者、文人、画家などを滞在させて教を受けたり、進んでは江戸に遊学して、有名な学者に師事し、幕府の昌平坂学問所に入学する者さえあった。」

2011年5月10日火曜日

「寺子屋」あるいは「私塾」について004

良寛は言った「いずれきっと名を成すにちがいない」。


西蒲原郡粟生津村の長善館・塾長鈴木文台(寛政8年(1796年)生まれ)をそう評した。
早熟な文台が19歳で江戸へ出る直前、牧ヶ花村(西蒲原郡分水町)の名家解良家で「論語」、「唐詩選」の講釈を聞いた際の良寛の言葉である。
文台は江戸へ出るが定師につかずに独学の道を歩んだ。
3年後、病を得て帰郷した文台は牧ヶ花村の掬水庵などで授業しながら、学んだ。
そして、天保4年(1833年)、文台38歳のとき、長善館を開いた。


「長善館学則」十一ヶ条
一、朝は早く起き、夜の課業は亥の時(午後九時から十一時)まで、ただし年少者は、このかぎりではない。
一、授業を受けるときは、口をすすぎ、手を洗うこと。
一、午前は袴を着ること。
一、午前は素読が終わった後、線香一本がともる間休み。
一、昼食後は線香半分がともる間休み、午後二時頃同じく一本休み。
一、一の日は詩作会の後、午後は髪を梳かし、入浴する。
一、六の日は複読と輪講。
一、四書五経は必ずまず、古註を基本にして、清(中国)の儒者の考証と歴代の諸賢の説を探って正しい道理を学び求めること。
一、小学は、爾雅、説文、広雅、字典を学ぶこと。
一、歴史・諸子百家は必要に応じて学ぶこと。
一、詩文は文選を学び、また李白、杜甫、韓愈、柳宗元、白居易(ともに中国唐時代の詩人)を読むこと。その他の著述については、各自の学力に応じて読むこと。粗雑にならないように。


「学軌」と題する一文に『孝経』を重視し「学とは何ぞ、孝悌のみ」と断言していたことから、孝悌(父母に孝行で、兄や目上の人によく従うこと)が長善館教育の精神であったと思われる。






---
前掲記事と同じく、高木靖文氏(新潟大学)の章の要約メモ。
良寛とのやり取りを想像すると面白い。実際にこういった交流が幾十にも重なって、思想と情報が行き交っていたのか。
学則にしても、現在の教育に活かされるべき、または脈々と受け継がれている項目がある。
いやはや、江戸後期、越後の国の教育に驚く。

2011年5月6日金曜日

「寺子屋」あるいは「私塾」について003


そして、高木靖文氏(新潟大学)の章の要約メモ。
刈羽郡の三余堂です!


---
近世初期の越後・佐渡の学問は海運の便もあり、京都・大阪からの影響が強かった。
有力諸藩から家臣として学びに出る者もあれば、藩とは関係なく自ら遊学に出向く者もあった。
儒学・医学・本草学(薬学)などが伝えられた。

刈羽郡北条村大字南条にあった私塾「三余堂」。
塾主は藍沢要助、字を子敬、南条をその号とした。
南条は寛政4年(1792年)生まれ、父は三島郡片貝村の郷塾・朝陽館の教師をしていた北溟。
朝陽館は村内の有力者が儒学を修め江戸にいた北溟を呼び、共同設立した近世越後では珍しい形であった。
北溟がリューマチに罹り亡くなったため、母方の実家に移り住んだ先が刈羽郡であった。
南条は江戸に出て折衷学を学んだ後、29歳で帰郷して三余堂を開いた。
学舎は東西5間、南北15間の広さで100人の門人を収容することが出来た。
その名声は会津(福島県)、能登(石川県)、尾張(愛知県)から入門者があったことをみると、いかにその名を広げていたのかがわかる。

三余とは冬・夜・雨の日など学問すべき時をさしていて、南条の教育観を示した言葉である。
三余堂の教育は、経書、歴史、詩文の学習を中心に据えて、門人の能力は学業の進度に応じた指導がなされた。
南条の主著「三余雑著」には「子弟を教育するには、仁がもっとも大切であると思う」とあり、厳格な礼儀を重要視した。課業を嫌った孫を雪中に投げ込んだとの逸話も。
南条が修めた折衷学は「三教一帰序」、「殊途同帰」、すなわち儒教・仏教・神道はいずれも聖堂から生じ、等しく真理を述べていると考えたからであり、特定の学問や教養だけが正しいとする立場に批判的であった。

また、南条は詩を作り楽しむことも勧めた。「南条三余草抄」巻一、「贅言三条」には「世の学者で、もっぱら経書や歴史を研究して詩など韻文を好まない者は、必ず柔和さ篤実さが足りません。それは、詩から生じる教えを用いないからです。反対に詩を好み経書や歴史を研究しない者は、必ずつつしみ深さや厳格さが乏しくなります。それは、人のふみ行うべき秩序の教えを用いないからです。両方ともに、どちらか一方ではかたよります。ですから、経書や歴史の研究の合間に心の動きを詩歌に詠んだりして、柔和で篤実な精神を養うべきです。」と述べている。

---
三余堂の設立の経緯に驚く。村民が共同出資してまで、教育機関を作ろうとした民意!
そして、南条のバランス感覚!見習わねばいけないな。

「寺子屋」あるいは「私塾」について002

続いては、後藤康志氏(長岡市立四郎丸小学校)の章の要約メモ。




---
一、身分の高い者も低い者も学問はすべきことであって、百姓などに学問はいらないということは心得ちがいである。すべての人がみな学ぶべきである。しかしながら学筋(学説・学派)の悪いものはかえって害になる。程子・朱子・闇斎の学筋を学ぶべきで、その他の学筋はやめること。




これは明和9年(1772年)、新発田藩の藩校「道学堂」を作った8代藩主・溝口直養のお触れ。「道学堂」は庶民に広く開かれた藩校として開校されたのです。


また、藩内の郷村で講釈を行うため、社講制度を作った。
庄屋・名主・百姓など身分に関わらず学力あるものを講師に任命した。


これは前半においては、大人たちに対する教養講座的な意味合いが強かった。
11代藩主・溝口直溥になって再度、手入れされて初等教育も含んだものに強化されていった。




---
新発田の土地にこのような教育観があったのか!!と思う。
200年以上も前にここまでの教育制度があり、広く学ぶということを欲していた人の多いこと!!

「寺子屋」あるいは「私塾」について001



今回の記事も4月の上旬の頃に思っていたこと。


以前から江戸期の教育に漠然とした興味があったので、いくつか文献をあたってみることにした。私にとってそれは「寺子屋」や「私塾」といったものがどのように機能していたのか?ということだった。

まずは、社団法人農山漁村文化協会から19881215日に発行された『人づくり風土記(15)ふるさとの人と知恵 新潟』を紐解いた。

この本は各章ごとに教員や大学教授、郷土研究家などが分担して書かれているもの。まずは波多野清子氏(十日町市立川治小学校)の章を私なりに要約し、メモ用に記したもの。


---
越後の寺子屋のはじまりは、天和年間(168184年)に北蒲原郡中条町築地に西村平作が開いた翁亭が最も古いもの。

寺子屋のほとんどは1020年間ほど開業し、その師匠一代で廃業するのが一般的。
師匠の多くは僧侶、医師、士族として本業を持つ人が、そのかたわら営むことが多かった。
寺子の家の経済状況に合わせて、野菜、薪炭などの生活必需品を五節句に進物として贈っていた。
寺子の数は40名以下がほとんど。
村上市の磯部順軒寺子屋と大滝章九郎寺子屋は100人以上かかえていた。
入門の年齢は78歳が多く、在籍期間も25年とそれぞれに異なった。
それ以上に在籍して、助手となる者もいた。

寺子屋では読み、書き、算盤が中心に教えられた。
その他に、漢学、国学、詩歌、作文、華道、裁縫があった。

教科書は江戸や京都から伝わったものを師匠が写した「往来物」を使った。
また、「村名付」という寺子屋周辺の地名・地理を学ぶ教科書もあった。
三条市宝塔院住職隆全の書いた「三条往来」などがあった。
「商売往来」「百姓往来」など、寺子の家の職業に合った教科書を使ったりもした。

新井市の小池宇左衛門の寺子屋の「寺子式目」
一、机にすわって、むだ話やあくびをしたり、居眠りをしたり鼻をかんだり、努めて練習しない人を手本にすることは、悪いことです。
一、紙を散らかしている者は、上手になりません。
一、子供が煙草をすったり、酒を飲んだりしてはいけません。
一、両親には出かけることや帰ったことを知らせましょう。

中蒲原郡村松町の柄沢惣次寺子屋の「制詞の条々」
一、手習いに退屈せずに、精を出しましょう。
一、相弟子、兄弟はもちろん、友だちと仲よくしましょう。
一、店先で買い食いをしてはいけません。
一、遊びに出ても、憎まれ口を言ったり大人に無礼に振る舞ってはいけません。
一、碁、将棋、歌かるたなどはしてもいいけれど、やりすぎてはいけません。



---
寺子と呼ばれた生徒の授業料が家庭の経済状況に応じて、決められていたのが興味深い。現在のように一律~いくら!~というものより柔軟に対応していた。現在、同じコトをやれるとは思わないが、その状況を想像すると面白い。

「三条往来」などは私たちも手に取ることが出来るのだろうか?読んでみたい。

寺子屋ごとの決まりごとなどは、現代の子ども達にも通じる普遍的なことも含まれる。教育はいま、どれだけ進化したのだろうか?退化したのだろうか?


2011年5月5日木曜日

春、過ぎゆく宵に

4月の最後の週末、グルリと巡った休日を少し記録しておく。
これまた、とりとめもなく記すことをお許し願いたい。

新潟市江南区にあるSOLIDさんの見学会に行く。
無垢材を使った気持ちの良い空間がそこにはあった。
無知な私に対しても担当の後藤さんは丁寧に説明してくれた。
















その後、ピア万代に初めて行く。
スーパーのよりも大きくてイキのいいアサリを買いたいという目的。
曽我農園さんのトマトも初めて買っていただく、なんと甘いことか!!
同じく感動したのが、サラダセットなるもの、生産者のシールが
貼ってあったのだが、食後捨ててしまい、思い出せないのが残念。

慌ててピア万代のホームページを見るが、農産物の生産者までは
掲載されていない...残念。管理主である万代にぎわい創造株式会社さんの
ホームページにぜひ掲載していただきたい。

写真の花屋さんを通ってトキメッセに吹き上げる風が気持ちよかった。



福島潟をゆっくり歩くのは初めてだった。
いい空気を吸ってきた。
絵を描いていたおじいさんに話しかけた。
人物画は昨晩、晩酌をしながら描いたそうだが、
風景はその日、一日で描ききったそう。
山の峰に差し込む光がとても美しい絵だった。

田中優氏のホームページを見ていて、
菜の花に興味を持ったのも足を運んだ理由のひとつ。


帰りに近所のルーテシアというケーキ屋さんによって帰宅。
チョコをからめたラスクを食べる。
甘さで押し込まない、なんと香ばしいカカオなんだろうか。
人気店なのもうなずける。