2016年6月29日水曜日

旧巻町住民投票と参議院選挙

投票へ!

7月10日の参議院議員選挙へむけ、6月22日の公示から一週間がすぎました。選挙期間は残り10日ほどです。「どこに投票したらいいんだよ、わかんね〜」と思っている方もいるかもしれませんが、わたしたちの国や暮らしの未来を選ぶ、貴重な機会です。なるべく多くの人が投票に出向いてほしいと思います。わたし自身も日頃から政治に関心を持って勉強しているわけでも、市民運動に参加しているわけでもありませんが、この期間くらいはすこし関心を持って調べ、一票を投じようと思っています。

とくに新刊の取材、編集を通じその思いを強めることになりました。

『Life-mag.vol.009【寺泊・弥彦・岩室・巻 編】』では大きなテーマのひとつとして、旧巻町で行われた東北電力巻原子力発電所建設計画をめぐる住民投票を取り上げました。その取材を通じて、編者が感じたのは〈1票の重み〉でした。

旧巻町では1969年に原発建設計画がスクープされた以降、25年以上に渡って、その国策のもとに町民ひとりひとりが、迷い、悩み、疑い、割れ、学び続けてきました。そして、1996年8月4日には日本ではじめての条例に基づく住民投票を行い、町としての答えを出すにいたりました。

その時の投票率は88.29%で、原発建設に反対との結果が出ました。

そこには、小さな町のなかで、家族、親戚、友人、地域、会社など様々な利害関係もありながら、町民ひとりひとりが政治を自分事として捉え、一票を投じたことの重みがありました。当時の笹口町長(本誌掲載)が住民投票の結果をうけて発言した「これは勝った、負けたの世界ではない。町民が自分たちの未来を選択したということである」との言葉には、熟議をかさねた町に対する〈誇り〉が溢れていたように感じました。

もうひとつ、取材を通じて感じたのは選挙戦の非情さです。

1994年、それまで原発建設に〈慎重〉としていた当時の巻町長が、突如、〈推進〉の立場を表明します。そして、選挙戦時には、その争点を曖昧にし、結果が出ると「わたしは原発政策でもって信任を得たんだ」と発言しました。

人は誰もが〈弱さ〉を持っています。何としてでも勝ちたいという思いがそうさせたのかもしれません。選挙はそういう風に見なければいけないんだなと思いました。

その歴史に学び、今回の参院選後を予想するとこうです。

安倍自民党政権は「自民党憲法改正草案」を掲げていますが、今回の参院選でひろく国民的な議論がかわされているとは言えないでしょう。しかし、選挙で議席を確保してしまえば、「わたしは憲法改正草案でもって信任を得たんだ。改憲を発議する」となるような気がしてなりません。

わたし自身は「なにがあっても憲法を変えてはならない」とは思いませんが、「ちょっと待ってほしい」と思っています。

また、旧巻町の原発建設をめぐり、その周辺で動いたお金の大きさには驚きました。わたし自身、それほどのお金を積まれた場合、どんな判断ができるのか不安にもなりました。

現在、圧倒的な数の力をもつ安倍自民党政権から利益を得ようとする企業や役人は、すでに様々な根回し、段取り、お膳立てを進めていることでしょう。権力の腐敗をすすめるのは、有権者であるわたしたちの〈無関心〉と〈諦め〉です。

地方議会ですら遠い存在なのに、参院選であればなおさら遠いことのように感じられるかもしれません。しかし、新潟に暮らすわたしたちであれば、旧巻町の経験に学ぶことは大きいと思います。

選挙は、投票を通じ国のあり方(それは地域社会のあり方でもあります)に意思表示できる貴重な機会です。残り10日。なるべく多くの人が参加してもらえたらと思います。

2016年6月21日火曜日

[寺泊]足立茂久商店11代目の足立照久さんを訪ねて

足立さん仕事場にて


『Life-mag.vol.009【寺泊・弥彦・岩室・巻 編】』の納品回りを続けています。

今日は営業回りの足で、本誌の[寺泊]郷土九品コーナーで紹介させていただいた「曲げわっぱ」をつくる足立茂久商店11代目の足立照久さんを訪ねました。わっぱはもちろん、篩(ふるい)や裏漉(うらごし)などはプロの料理人や和菓子職人に愛用されている逸品です。「新潟モノ物語」の足立さん紹介記事(http://niigata-mono-monogatari.com/2015/12/24/adachi/)でとくに詳しく紹介されています。

発刊後もなお「売ること/届けること」を通じて、その地域についてさらに知ることが多いです。とにかく歩くことを続けたいと思います。Life-mag.を「取扱ってもいいよ!」「あそこなら取扱ってくれるかも!」という情報などありましたらお気軽にお声がけください。

どうぞよろしくお願いいたします。

[Life-mag.新刊情報]http://life-mag-interview.blogspot.jp/2016/04/life-magvol009.html

2016年6月17日金曜日

岩室納品回り。岩室芸妓・こうめさんに献本。


『Life-mag.vol.009【寺泊・弥彦・岩室・巻 編】』の納品回りを続けています。

今日は[岩室]岩室甚句の取材でお世話になった岩室芸妓のこうめさんに御礼の献本を届けました。いい形で記事にできていたようで、ほっとしました。

「反骨の民謡|岩室甚句」と題して、2ページの記事にさせていただきました。芸妓としての思いをこうめさんに伺い、昭和初期に活躍した名芸妓・小龍さんのことを角屋悦堂の佐藤会長に伺いました。

「岩室甚句」は年貢米を出せと迫る代官所をなじり、農民たちの鬱積した反骨精神を唄いあげたものです。土地の暮らしに寄り添い、庶民の背中を押すような反骨の唄は、いまの時代もなお求められているのではないでしょうか。といったことを書きました。

またその足で、新規取扱営業も行いました。今日現在の[岩室]地区での取扱いは以下です。

いわむろや(新潟市岩室観光施設いわむろや/岩室温泉)
岩室温泉 和田屋 ウインズ
室礼
・からむし家
・角屋悦堂
・小冨士屋

以上です。どうぞよろしくお願いいたします。

そして今晩から[岩室]ではほたる祭りが行われます。ちょっとしたお出かけに絶好かと思います。ぜひ。

2016年6月11日土曜日

Life-mag.にてインターン・村山亜紗美より

高綱さんインタビュー中

『Life-mag.』で3月からインターン中の村山亜紗美です。

私は現在、大学4年で、将来は『Life-mag.』で働くことを目指しています。3月から、【寺泊・弥彦・岩室・巻編】の後半の取材に同行させて頂きました。そして今回、野積杜氏である髙綱強さんのインタビューを担当させていただきました。

そもそも『Life-mag.』で働きたいと思ったきっかけは、昨年の12月に沼垂にある本屋さん「BOOKS f3」で創刊号を立ち読みしたことでした。

「あなたの夢は何ですか?」

というテーマで小さな子どもからミュージシャン、カップルやおじいちゃんまで...、沢山の人のスナップが載っていました。その率直な質問に戸惑いながらも、「こんな雑誌があるんだぁ」と面白半分でページをぱらぱらとめくりました。
その創刊号は、7〜8年も前に発行されたものでしたが、「新潟にこんなに人がいたんだ」と新鮮に感じたことを覚えています。生まれ育った新潟で、聞いたことのある地名や風景が背景にあるにも関わらず、〈新しい新潟という地域や人〉を実感しました。

以前から出版関係の仕事に興味があり、雑誌や本を作ってみたいと思っていました。そんな中、読んだ『Life-mag.』は私にとって衝撃的でしたし、単純に「これは面白いぞ!」と思いました。世の中にありふれている〈美しい情報〉はいつも新しい情報に更新され、便利なのにどこか冷たさを感じます。人の温度が直に伝わるこの雑誌は、きっとこれからも必要とされるものであると思いました。
そして、私もここに、ただただ飛び込みたいと、思いました。そんな衝撃から、思い切って編集発行人である小林さんにメールをし、その後、働かせてほしいとお話をさせて頂きました。

実際に行った数回の取材や同行だけでも、私にとっては沢山の人との新たな出会い、新しい経験をしました。地域の人の声に耳を傾け、丁寧に文字に起こす。そこにはきれいなものばかりではなく、人生や暮らしのなかでの葛藤や切なさも滲み出てきます。
それから、人と接していくことの重さというものも実感しました。雑誌作りの仕事について、以前は漠然と「カッコいいな〜」と思っていましたが、実際は地道で大変な仕事だと知ることもできました。また、その中で人と向き合い、形にすることのやりがいというものも同時に知りました。

取材地域やそこに住む人たちの想いや歴史はいつか、新しいものに更新され、暮らしはより便利になっていくのでしょう。しかしそこに暮らした人や、それぞれの想いがあったことを残していくことには、きっと意味があるのだと思います。そして、人の声を大切にしたこの『Life-mag.』という雑誌が様々な線を超え、多くの人に読まれることによって、さらに人と人は繋がっていくのだと思います。今回、初めて取材させて頂いた野積杜氏の髙綱さんの想いも、どこかで繋がっていくことを願っています。

————————————————
以上です。
以後、お見知りおきくださいませ。

2016年6月4日土曜日

経済とは、人と人が出会い、知り合い、活力にかえていくエンジンである

ショップ内はいい香り。うちの編集室も真似たい。

『Life-mag.vol.009【寺泊・弥彦・岩室・巻 編】』の納品回りを続けています。昨日は[巻][燕][三条]へ。もっと戦略的な売れる仕組みが必要なのかもしれませんが、いまはとにかくこつこつ歩くことを続けています。

写真は「Factory Front Presented by MGNET」へ納品に伺った際、武田修美社長との一枚です。名刺入れ専門店と燕三条地域の商品を扱うショップ、工場、オフィスの複合施設です。「観光や商談でショップを訪ねた方たちに『Life-mag.』を手に取ってもらいたい。きっといい土産品になるし、土産話もふくらむんじゃないかな」と、お声がけいただきました。

納品だけだったのですが、2時間も話し込んでしまいました。今号からの取扱となります。ありがとうございます。

毎号そうですが、営業・納品回りでは書店をはじめ様々な場所を回って「お金」のやりとりが発生します。そこでは、小さな取引=経済が生まれます。その経済とは人と人が出会い、知り合い、活力にかえていくエンジンのようだなと、ふと、今回の納品回りを通じて感じています。

2016年6月1日水曜日

Life-mag.vol.009【寺泊・弥彦・岩室・巻 編】番外編|野積杜氏・髙綱 強インタビュー

野積杜氏

『Life-mag.vol.009【寺泊・弥彦・岩室・巻 編】』の番外編として、[寺泊]の野積杜氏・髙綱 強さんのインタビューを掲載します。

かつて冬の雪深い時期になると越後の男たちは各地の酒蔵に出稼ぎに出ていました。明治以降には約2万人もの越後杜氏が全国各地の酒造りを支えていたといいます。

越後杜氏には、大きくわけて頸城杜氏(吉川・柿崎)、刈羽杜氏(鵜川・鯖石川・渋海川上中流沿い)、三島越路杜氏(塚野山・岩塚・来迎寺)、野積杜氏(寺泊)の4つの集団がありました。髙綱さんはその野積杜氏になります。

野積の男たちが杜氏として出稼ぎに出るようになったのは、江戸中期頃(1750年代)からと言われ、当時、野積を藩下においていた奥州白河藩(福島県白河市)への出稼ぎがはじまりとされています。また、野積には「弥彦の神様が野積の衆に米作りと酒造りを教えてくれた」との言い伝えもあり、野積と酒造りは歴史的にも深い関係があります。

野積は海と山に囲まれた地形のため、農地が少なく、漁業や茅葺業が主な職業とされてきました。そのため、冬場、酒蔵への出稼ぎは生活を支える貴重な収入源ともなりました。

全盛期には180人ほどの野積杜氏がおり、杜氏の里とも呼ばれるようになりましたが、酒造りが機械化されると共にその人数は減り、現役で働いている杜氏は現在1人となりました。

髙綱さんは中学卒業後の昭和27年頃から野積杜氏の1人として働き、平成23年、74歳までの約60年間、酒造りに携わってきました。

インタビューはいまLife-mag.に見習いで来ている村山亜紗美さんが担当しました。以下、インタビュー文です。

——酒蔵ではいつごろから働き始めたんですか

中学卒業後からですね。夏は漁師や茅葺屋根職人として働いていました。
漁師の仕事は「板子一枚下は地獄」とも言われる厳しい仕事で、最初の2年くらいは船酔いして大変でしたね。慣れてきたら大丈夫になりましたが。
茅葺き屋根職人としては、自転車をこいで新潟市内の上所、近江、内野、五十嵐浜などに仕事に行きました。私は小学生の頃、下校途中に屋根を葺いている職人をみると「屋根葺きの黒金玉〜!」とかって言ったりもしてました(笑)。自分でその仕事をするようになってからわかりましたけど、煤(すす)で真っ黒になるんですね。
そして、冬場、12月の下旬頃から酒蔵へ働きに行きました。

——どこの酒蔵で働いたのでしょうか

私は湯沢の白瀧酒造に行くことになりました。
どこの酒蔵で働くかというのは、自分の親と杜氏さんとの間で話がされ、地域の若い者の働き先が決まっていくんです。「あの人は優秀だから、そこの家の息子をもらおう」というように杜氏さんが次の仕込み期間に、自分の下につけて働く人を集めていくんです。できる人ばかりが集まる所もあれば、毎年人が変わるようなところもあって、それは杜氏の外交能力次第でした。

——酒蔵では具体的にどんなお仕事をしていましたか

最初は米洗いでした。
たとえば吟醸酒は、7℃~8℃の冷たい水でゆっくり丁寧に洗わなきゃいけないんです。「胴割れ」といって、米が割れないように冷たい水でゆっくり水を吸わせていくんですね。
水の温度が高いと、一気に水を吸い込んでしまって米が割れてしまうので。「胴割れ」してしまうと、計算以上の水を米が吸水してしまうことになるので、温度管理は重要なんです。
水の温度がなかなか下がらない時、水を入れているタンクに雪を入れて温度を下げようとしたことがありましたが、それを杜氏さんに見つかってしまって、すごく怒られたねぇ(笑)。「雪と水は成分が違うからお酒の味も変わってしまう」とその時、教えられました。
軟水、硬水などの水の性質や成分も考えて調合していくんです。杜氏の力は水をみる力にかかっているとも言えます。低温で仕込んでいれば良いお酒が出来るというわけでもないし。その都度成分を調整したり、温度を上げなければいけない時もあるからね。

——他にはどんな仕事をされていたんでしょうか

3~4年経つと、現場ではなくてお酒の調合の仕事なども任されるようになりました。清酒メーターで、お酒の甘辛を調整するんです。これはお酒の入ったシリンダーに入れてお酒の甘辛やアルコール度数を測る浮標です。

かつて実際に使用していた清酒メーターを見せてもらった

また、タンクごとに違う酒の味や風味、色を同一にするために味見をして調整する作業もありました。先輩杜氏さんの教えはあったけど、自分で本を読んだり数学を学んだり、先輩の仕事の様子を見たりして、仕事を覚えていきました。先輩が捨てたメモを拾って、参考にすることもありましたよ。とにかくいい酒を造ろうと、杜氏研究会などにも入れてもらって仕事が終わった後にも勉強しました。

——酒蔵ではどのような生活だったのでしょうか

杜氏さん以外は、全員で15~20人がひとつの部屋で雑魚寝して生活していました。床に就くまではみんなで男女の話や世間話をして過ごしました。
ただ、白瀧酒造はとくに勉強させられる蔵だと言われていて、本当に勉強させれました。夜になっても若い者は杜氏さんから「おーい、そろばん持ってこーい!」と呼ばれて、6、7人でそろばんを教えられましたね。

——教育もしっかりとされていたんですね

それから、若い者は夜中に起きて仕事もしなくちゃいけないんです。
発酵管理のために、「泡番」という人が必ずついていて、樽の中を長い竹の棒でずっとかき混ぜていなくてはなりません。順番に1~2時間ずつ仮眠をとっていくんです。
たまに誰かが目覚まし時計を止めて二度寝してしまうと、お酒が発酵してしまって蔵中泡だらけになってしまうこともありました。当時は人がつきっきりで竹の長い棒でかき回してましたが、今はモーターが回ってくれますね。

——手作業の工程も多く、生活のほとんどが仕事のようだったんですね

朝、杜氏の補佐係である頭(かしら)さんが「番割り」といって、誰が何時にどの仕事に就くかを黒板に書き出し、それを見て仕事が進められていました。
それから、酒蔵に入ったばかりの頃は、杜氏さんの布団敷きから洗濯など身の回りの世話までやらなければなりませんでした。
しかし、当時の河合高明杜氏は「自分でやるからいいよ」と言ってましたね。河合さんも野積杜氏でした。出しゃばったり、気を遣わせるようなことはしないで上手に引っ張っていくタイプの方でしたね。
若い者を叱るときも人前で恥をかかせるようなことは絶対にしませんでした。一対一でその人ときちんと向き合って話すような杜氏でしたね。

——すこし調べたんですが「酒造り唄」を唄って作業もしたのでしょうか

そうですね。各杜氏集団ごとにあって、私たちも習って唄いました。
「米とぎ唄」や「もとすり唄」などたくさんあったね。その酒蔵の杜氏さんが野積出身だと野積の「酒造り唄」だったりしたね。「唄半給金」という言葉があって、酒造り唄が歌えないと、一人前にはなれないともいわれたくらい重要なものでした。
一人が歌って、次の人が歌って、と繋いでいくんです。その酒造り唄の節回しや長さで、作業の時間を計っていました。

——ストップウォッチのような役割ですね

今年も「新潟酒の陣」に呼ばれて唄ってきましたよ。
それから「酒屋言葉」といって仲間内で話す暗号のようなものもありました。
味噌は「げんしち」、米は「まつべい」とかね。例えば「当内は潮が流れないの〜」というのは「ご馳走がない。ご飯がおいしくない」という意味なんです。
各地を渡り歩くから、出稼ぎにいった先で仲間同士だけで話せるようにできたんだと思います。
「酒造り唄」も「酒屋言葉」も故郷から離れた土地で冬を過ごす間、仲間同士で励まし合って仕事をするのに大切なものだったと思います。

——冬場の出稼ぎとして酒蔵に行くというのは、いつ頃まで続いたのでしょうか

私は25歳の時に結婚して、それからは通年で白瀧酒造に勤めました。
白瀧酒造で働き始めた頃、風間保男という人が、白瀧を出て杜氏として働くということになりました。そこで、ついてきて手伝ってくれないかとなり、一緒に愛知県の酒蔵に1年間行ったこともありました。
ほかにも岐阜県の焼酎を造ってる蔵に行ったこともありました。若い者はあちこち働きに呼ばれるんですよね。その後、河合杜氏に「白瀧に戻ってこい」と呼ばれてまた白瀧に戻りました。それから65歳で辞めるまで勤めましたね。

現役時代の写真

河合杜氏が亡くなられてからは、私が杜氏として働くようになりました。後で聞いた話ですが、私の父親が河合さんに「あなたの後を継ぐのは自分の息子しかいない」と話していたようです。私の父親も北海道でずっと杜氏として働いていたので、そう言っていたと知った時は、父親からも認められたようで嬉しかったですね。

——杜氏として大切にされていたことはなんでしょうか

酒造りというのは、人の心を読み取れなければだめだし、人を引っ張っていく力がなければいけません。そこではやはりお互いがよく話し合うことですね。
あと、自分の酒蔵で造った酒を故郷に持って帰った時にも、他の蔵に出稼ぎに出ている同郷の仲間同士で意見交換をしたりして、さらに負けじと酒造りを考えてきました。切磋琢磨できるような環境があったのはよかったですね。

白瀧酒造ウェブより転載

——白瀧酒造の代表的な銘柄である「上善如水(じょうぜんみずのごとし)」の開発エピソードについて教えてください

「20歳の女の子でも飲めるようなお酒」を造れないか、との社長のアイデアに対し、試作を繰り返し造ったものです。軽くて飲みやすい日本酒の先駆けとして、平成5年頃から発売したと思います。
これがかなりのヒットとなり、私が働きはじめた頃、おそらく1,500石ほどだった生産量が24,000石ほどまで伸びました。

——わたし(村山・21歳)も飲んでみましたが、ほんとうにスッキリとしていて飲みやすかったです。時代や会社の規模も変わっていくと様々な変化もありそうですね

そうですね。パソコンでの仕事も増えてきて、55歳の時には六日町の職業訓練学校に仕事が終わった後に通ってパソコンも習いました。新潟の杜氏でパソコンをできる人は当時ほとんど居なかったと思いますよ(笑)。
また、晩年は北海道から沖縄まで営業の仕事もしました。営業マンだけでなく、杜氏が直接会社に行って話すと、トップの人の目の色が変わるんですね。

——白瀧酒造はいつまで勤めていたのでしょうか

65歳までですね。たまたまなんですが白瀧酒造を退職した帰りの上越新幹線の中で、醸造や発酵を研究していた日本醸造協会の吉田清先生に会いました。するとそこで福島県の料理酒を製造している蔵に行ってみないかと紹介を受けました。そして、また7年ほど勤めることになったんです。

——酒造り人生は終わらなかったと

日本酒は味が重くなるのを防ぐためアミノ酸を抑えなければなりませんが、料理酒は逆に料理の旨みを引き出すためにアミノ酸を増やすんです。そこでもまたいろいろと勉強させられましたね。
さらにその後は、群馬県の酒蔵に冬の間だけ2年通いました。私が通う前、「火落ち」といって仕込んでいる酒が腐ってしまうことがあると相談を受けました。そこでは衛生管理、整理整頓など基本的なことを指導しました。福島崇さんといって、若く優秀な杜氏がいたので、私が長く居ていては彼が伸びないなと思い、さっと辞めました。

——中学卒業後から74歳まで、ほんとうに一途で長い酒造り人生でしたね

いい時代もありましたが、もちろん苦労もありました。
好きな言葉は「温故知新」です。古いものから学び、基本を身につけ、新しいものも求めていく。大好きな言葉だね。最近は、習字を習いはじめたり、庭木の手入れをして四季を感じたりして過ごしていますよ。

取材後、酒造りの神様を祀る松尾神社(寺泊野積)にて