2015年12月30日水曜日

本年もありがとうございました。

[巻]角海浜からの夕陽(12月撮影)

今年もあっという間に年の瀬ですね。わたしはまだ編集室の机にへばりついて細かい仕事を重ねていました。先ほどバックナンバー三冊の注文があり、早速、発送してきました。制作も営業も、一言一言、一部一部、とにかくこつこつ積み重ねるしかないですね。

暮れ行く年を振り返って、一言だけ御礼のご挨拶です。

二〇一五年も弊誌をご愛読、ご支援いただきましたこと感謝申し上げます。ありがとうございました。

一冊の雑誌を作るのに企画、取材、撮影、編集、デザイン、印刷、納品、経理、宣伝とさまざまな仕事がありますが、ご縁をいただいた皆様のお陰でなんとか制作を続けることができました。取材に協力いただきました皆様、広告主の皆様、取り扱い店舗の皆様、様々なかたちで制作に助言・協力いただきました皆様、家族、友人にあらためて感謝いたします。

今年は一月に『vol.008【日本海編】』を発行。その後、県内外へ納品回りを行い、四月から『vol.009【寺泊・弥彦・岩室・巻編】』の取材に入りました。年内に発行できたらと考えていましたが、かないませんでした。編者の段取りの悪さ、仕事の遅さゆえです。年内発行を待っていいただいた方には申し訳ありませんでした。前号よりも紙数を減らしてまとめようと思っていましたが、結局、同程度のボリュームになりそうです。制作状況は七〜八割といったところです。残りの制作も鋭意進めて参ります。

今年だけを振り返ってみても、編集者やインタビュアーとして、また経営者としても、稚拙極まりないことを痛感する局面が多々ありました。翌二〇一六年も向上心と好奇心をもって制作を続けていきたいと思います。

まだまだ未熟で無知な編者ですが、今後とも変わらぬご支援、ご鞭撻賜りますようよろしくお願い申し上げます。

来る年が、皆様にとって、健やかな一年となるよう、町の片隅の小さな編集室から祈っています。

2015年12月19日土曜日

「BOOKS f3」さん(沼垂東・新潟)新規開店。

元時計・眼鏡屋さんを改装した店舗

BOOKS f3」さん(沼垂東・新潟)が本日11:00、新規開店します。写真・アート関係の新刊と古書を扱うお店です。

Life-mag.も取り扱いいただけるとのことで、昨日、納品に伺いました。ぱっと店内をながめただけでも気になる本がたくさんあって、めくり出したら、居座ってしまいそうだったので、挨拶とすこしの世間話だけしてきました。

店主・小倉さんは、10年ほど前、高校生の頃にみた牛腸茂雄(加茂出身)の展示会で写真の魅力にはまっていったそうです。カウンターでは珈琲と紅茶を注文することができます。気になる写真集をじっくりと見つけてみてはいかがでしょうか。

[WEB]http://booksf3.com/





開店準備中に伺ったときのツイート▼


2015年12月18日金曜日

次号編集の長い佳境であらためて感じていること

「やぁ。きみには見えてるんだよね? 感じてるんだよね?」。

取材で各地を訪ね歩いていると、過去、その土地に生きた者たちの声なき声を聞くことがある。うまく言えないけれど、それはオバケが見えるという霊感とは違った意味で。

その声は、誌面をつくっていくにあたって、予定していない要請となる場合も多々ある。締め切りがとか、誌面の都合で、といった言い訳を(自分の中で)して、聞こえなかったこと、見えなかったことにして済ませたいなという衝動にかられることもある。

けれど、編集発行人が自分なので、1ページ足せないわけじゃないし、もう1人会って話を聞けないわけじゃない。結局はその声にしたがって、取材制作を進めることになる。

佐渡取材の時もとくにそれを感じた。郷土史家の山本修巳さんへのインタビューでは、「佐渡には〈呪い〉の歴史もあると思う。でもなにか救いはないのか」と聞いたら、「知ることが〈弔う〉ことになると思う」と答えていただいた。それにはとくに共感した。

そういうこともあって、以後、私はこの雑誌の原稿を書くことの大きな意味のひとつとして〈弔う〉ことを大切にしている。雑誌という形にして、ふたたび知らせること、掘り起こすこと、残すことはそういう仕事でもあるんだと思っている。

さらにいうと、その声とは、〈死者からの視線〉でもあり〈縁を結ぶこと〉だとも思っている。その声に従って、取材を進めると思いがけない人との出会いがあったり、記事にしたものが誰かと誰かを結ぶことになったりするからだ。

その声は私に言う、「聞こえた? わかるでしょう。わたしたちは、あなたたちと生きていることを。あなたたちの中に生きていることを」。

だから、私も祈る。つくってきた雑誌、これからできる雑誌が、この先の、未来に生きる人びとの中にも生きてくれることを。

書き過ぎたかなぁ...。でも、いま生きている人が買ってくれなきゃ商売にならないんだけどね。経営はあいかわらず厳しいし。次号の取材も長い佳境に入っていていくなかで、あらためてそんなことを感じてます。次号のあとがきもきっとこんなことを書くと思う。早いけど、、、もう先に言っておきます。

ふたたび間瀬銅山へ、燕市産業史料館の齋藤さんと

沢を歩いて散策中

しばらくあたたかい日が続いた新潟でしたが、一転、冬の寒さがやってきました。昨日(12/17)は、間瀬銅山にいってきました。

間瀬銅山で採掘された銅は、燕の鎚起銅器の原材料としても使われていた歴史があり、その関係について詳しく伺いたく一昨日(12/16)燕市産業史料館の学芸員・齋藤優介さんを訪ねました。齋藤さんもちょうど原稿執筆中で、資料をみせてもらいながら、話を伺いました。

4月の玉川堂さんの社員研修にも一緒に参加していたのですが、再度、入口付近だけでも同行してもらえないかとお願いしたら、快くオーケー。早速、行くことに。

ただ、天気は雪。日本海から吹き付ける冷気と、鉱山跡に漂う霊気のなか、1時間半ちかく散策しました。「せっかくの休日にこんなところに連れ出してすみませんね〜m(_ _ )m」と恐縮しながら言うと、齋藤さんは「いやいや、俺はぜんぜん大丈夫。いや〜、それにしてもいい雰囲気だね〜ヽ( ´¬`)ノ」と。さすが、です。

鉱石から銅を取り出したあとのクズが投げられてできた「ボタ山」にいくと、すぐにその銅山産業の遺物が転がっているんですね。ひとりで来たら、何気なしに歩いて帰っていたでしょう。

銅を取り出した後の鉱石があちこちに転がっています
銅につく錆の「緑青(ろくしょう)」がふいています

間瀬銅山を歩いた後は、近くの旅館を訪ねたり、間瀬の自治会長さん宅を訪ねたりもしました。間瀬銅山に関しては資料がすくないなぁと思っていましたが、地元の方に聞くと、生きた歴史がみえてきました。案内、お付き合いいただいた齋藤さんには感謝です。ありがとうございました。

2015年12月12日土曜日

『ひらく美術』の備忘録と「鉢の石仏」で見たもの



こへび隊」の活動をしていた友人から借りた北川フラムさんの『ひらく美術——地域と人間のつながりを取り戻す』(ちくま新書)。取材の移動の合間に読んでいたんですが、後半部を編集室で読みきりました。印象に残った箇所を備忘録として書いておきます。

フラムさんがプロジェクトを考える際や会議の席上で伝えていたこと、

——————————————————————
①アートは明らかに地域の特徴を表すだろう。そのためには、地域をとにかくよく回る。この地域が歴史的、経済的にどう扱われてきたのかをはっきりと摑もう。
②どのような計画が将来活きてくるかはわからない。特に国策のもとにある農業の展望はわからない。しかし農業をするということはベースにしよう。
③少なくとも日々の生活で、心爽やかな思いがのこるようなプロジェクトを行おう。
④半年のあいだ豪雪のなかにいた人びとにとって、集落というコミュニティは絶対的なことだ。そのリアリティを大切にしよう。
⑤プロジェクトの成果は短期的には決して測れない。しかし3年に1回の短期的な評価にはギリギリ応えなくてはならない。
⑥人が来ればいいというものではない。しかし高踏的、専門ジャンルの評価を気にしていては何もやれない。そのベースをどこにとるかが重要だ。(149p.-150p.)
——————————————————————

とくに共感したところは以下です。これからの地域はどうあるべきかという箇所で、

——————————————————————
「本来の地政学的な、地形的・気象的な特質と、地域単位で考えられてきた文化を活かさなければいけない」(161p.)
——————————————————————

いま取材・制作している『LIFE-mag.vol.009【寺泊・弥彦・岩室・巻編】』の問題意識とも通じるものを感じ、(勝手ながら)背中を押されたようにも思いました。この地域は、長岡市の[寺泊]、弥彦村の[弥彦]、新潟市の[岩室]と[巻]です。しかし、地形的には弥彦山系の麓一帯と考えることもできるし、彌彦神社の御祭神が[寺泊]から上陸したこと、御祭神の三世は[巻]福井地区に住まわれたこと、五世は[岩室]樋曽地区に住まわれたという結びつきもあります。そして、中世には「北陸道」として、江戸から明治には「北国街道」として佐渡金山、弥彦詣でや新潟湊を目指す人びとの往来がこの地域にあり、周辺は宿場町としても栄えました。

現在は行政区画も別々で、この地域を一連の流れで取り上げている媒体もすくないようなので、わずかでも(古くて)新鮮な視点を提供できたらなと思っています。はやく発刊しろよという、声なき声も聞こえてくるようですが...、だいぶまとまってきました。もうすこしです。

話を本に戻して。さらに上記の箇所に続く段落で、芸術祭を運営するにあたって「行政」や「政治」と向き合い感じてきた葛藤が記されていました。フラムさんによる、本質をつく指摘だと思いました。日本の各都市・各地域は、米国流のグローバリズムの中で効率化され、実質的な文化単位を失ってきたとした上で、

——————————————————————
それが役所の仕組みになっているし、小選挙区制というおよそ民主主義と相いれない政治と、文化単位でできていない行政単位のなかで柔軟な対応ができなくなっています。単年度決算と年度内予算消化で長期的計画がなくなり、お金の無駄が多くなります。これに、思いつき、選挙の人気取りの予算ばら撒きが重なります。
しかし、志ある人はどんな組織にもいるはずで、私たちは正攻法で、将来のヴィジョンを示し続け、理解できる活動をし続けなければいけないと思います。
(中略)
革命の道筋がない以上、人間の本性の核に語り続け、行政と仕事をし続けることしかありません。そのためのプロフェッショナリズムを持ち続けることしかありません。(161p.-162p.)
——————————————————————

私たちはいま、どんな時代、どんな状況を生きているのか、その視点をクリアにしてくれるような指摘だと思いました。「里山」を舞台に開催される芸術祭を通じてみた、フラムさんの地域論/日本論、おすすめです。

そういえば、2年半前に北書店さん(医学町通・新潟)で開催されたトークを聞きにいったときのメモがありました【こちら】。相変わらずの駄文ですが、参考までに。

以下は、駄文に続き、蛇足です。

絵本と木の実の美術館の玄関に貼ってあったお札

2000年にはじまった「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」、今年は第6回でした。私の暮らす新潟市内からも友人・知人が過去開催会に増して、越後妻有の土地を訪ねたようで、会期中、フェイスブックのタイムラインでずいぶん写真をみた気がします。

私は会期中には訪ねる機会がありませんでしたが、会期前の6月にたまたま家族で十日町に行きました。「絵本と木の実の美術館」に行くと、田島征三さんが偶然いらっしゃっていて、声をかけて記念撮影をしてもらいました。

会期前でしたが、ヤギの入園式?のようなイベントもやっていて大勢の人もいました。

調べたら田島さんの絵本に
でてくる「しずか」でした

その道中に「鉢の石仏」という看板をみつけてしばらく散策。ちょうど息子が『もののけ姫』にハマっていたので、そんな世界を疑似体験したのでした。この美術館がなければ、まず行かないような、芸術祭が導いてくれた場所でした。

江戸中期、大阪のお坊さんがこの地で不思議な「天燈」をみたという

200体ほどの石仏があります

そして、久しぶりに写真を見返したら(!)

伊夜日子大神(!)

あれ! 彌彦神社御祭神の別名・伊夜日子大神とかかれた石像が写っていました。この地にも彌彦神社への信仰があったのでしょうか。

2015年12月10日木曜日

国上山麓を歩いて




月〜水曜と【寺泊・弥彦・岩室・巻】を歩き回っていました。新潟の冬にはめずらしく連日、晴れ。私は日頃の運動不足もあって筋肉痛です。

火曜は[寺泊]へ取材依頼にいったのですが、うまく話が進まず...。また出直そうと気を取り直して、国上山周辺を歩いてから帰りました。

良寛さんゆかりの地・国上寺の麓地域を歩いていると、道を塞がんばかりの大きな岩、ぴったりと張り付く樹木、そしてその上には祠。これはなんなんだろうと思うも、隣家は空家。周辺のお宅二軒ほど声をかけてみました。

すると、、、その昔、西行が歩いてきた際、この岩をみて道を引き返したという「西行返しの岩」だとか。数年前、山道を整備する際もサワリ(祟り)があると悪いからと道を曲げて整備したとか。きっとなにか信仰があったんだと思いますが、上の祠に関しては詳しいことはわかりませんでした。

情報をお持ちの方がいましたらぜひ教えていただけたらと思います。

今日は編集室にいられそうなので、たまった取材メモと写真データを誌面に落とし込み、残りの取材段取りなど進めていきたいと思います。

2015年12月5日土曜日

北国街道の道筋を調べて。岩室民俗史料館の棚橋宏さんを訪ねる。

猿が馬場の峠から野積へ

一昨日、エリアマップに入れる「北国街道」の道筋について教えを乞うため[岩室]の岩室民俗史料館へ棚橋宏さんを訪ねました。新潟市に合併される前に「岩室村文化財保護審議委員」を務めた方です。夏にお会いして以来、二回目でした。こちらの求めに気さくに応じていただき、ご自身がまとめた資料も快く提供してくださいました。

ただ、[弥彦]から[寺泊]への道筋でやや不明な点があり、やはり自分の足でみるのが一番ということで、その後に確かめにいってきました。[弥彦]の麓地区から八枚沢林道をのぼって、薮に入ったり、沢の名前をたしかめたり。この時期、ほとんど人が入らないような場所に、雨の中、ひとりの男が彷徨う姿は傍からみたら不気味だったでしょう。

舗装された道路からすこし入ると、確かに人びとの往来があったであろうその足跡がみつかるんですね...。「ブラタモリ」をみてると時々、タモリさんが「道は覚えてるんですよね〜」と言いますが「まさに!」と思いました。

最後は、猿が馬場の峠から[寺泊]野積地区に出て新潟へ戻りました。数カ所の修正点がみつかりました。よかった。やはり、地元の人の話を聞くこと、現場を歩くこと、見ることが大切ですね。

2015年11月27日金曜日

佐渡ツアーのコーディネート

NPO法人新潟NPO協会の石本貴之さんから佐渡の研修ツアーのコーディネートを依頼いただいて、先日、そのツアーに同行、案内してきました。これは新潟NPO協会さんが受託した新潟県の「トキをプロデュース・野生復帰推進事業」で、トキの暮らす佐渡の豊かな自然環境PR、支援者、交流者の拡大を目指している事業です。

また、いわむろや館長の小倉壮平さんがメンバーとなっている「トキめき佐渡・にいがた観光圏」(佐渡市、新潟市の恊働事業)の研修ツアーも一部兼ねての依頼でした。小倉さんは直前に都合がつかなくなり急遽、欠席となりました。

ツアーは2015年11月21日、22日に行われました。参加者はおもに関東圏からの10名弱。わたしがコーディネートした部分を中心にブログで紹介します。

「朱鷺と暮らす郷づくり認証米」の栽培を行う佐渡相田ライスファーミングさんの田んぼへ

Life-mag.【佐渡編】のご縁でずっとお世話になっている相田忠明さん(中央)と

相田さんには、【佐渡編】取材後も納品回りのときに自宅に泊めていただくなど大変お世話になっています。Life-mag.別冊として相田ライスファーミングの紹介誌も制作させていただきました。

[佐渡相田ライスファーミング]http://www.aidarice.net/
[Life-mag.別冊]http://life-mag.com/sadoaidarice/top.html

酒米に朱鷺認証米を使用している尾畑酒造の平島健社長

直売所にて集合写真。試飲もたくさんさせていただきました

平島社長が以前、出版社に勤められていたということもあり、【佐渡編】取材のときにはいろいろとアドバイスをいただいてお世話になりました。

[尾畑酒造]http://www.obata-shuzo.com/


郷土史家の山本修巳先生宅へ

山本家はかつて「本陣」として奉行所の役人が休憩に寄った

山本先生も【佐渡編】取材でお世話になりました。朱鷺とは直接的には関係ないかもしれませんが、佐渡の歴史、文化は佐渡への理解を深めるのに必須かなと思い、行程に入れていただきました。

ファミリーオ相川にて相田家の子ども鬼太鼓披露

ツアー参加者に太鼓指導

披露を終えて記念撮影

当初、宿泊先はここではなかったのですが、相田さんと事前打ち合せをしていると、「その日は夜、ファミリーオ相川で子ども鬼太鼓を披露するよ」という話を聞いたので、こちらに泊まっていただくことにしました。

ファミリーオ相川は相田家がお米を納めているホテルです。また、この日は相田家のお米をさらに旨く炊こうと「蒸しかまど」を復刻、製造している阿賀野市の小田製陶所の小田社長も来ていました。

[ファミリーオ相川]http://www.familio-sadoaikawa.com/
[小田製陶所]http://www.odakame.com/

わたしがコーディネートしたのは以上です。他、トキの森公園、北沢浮遊選鉱場、佐渡金山、on the 美一を訪ね、最後にワークショップを行い散会となりました。

トキの森公園にて計良武彦さん(NPO協会理事で佐渡在住)の解説

地元ボランティアスタッフからも解説を

on the 美一の山内三信さんの話を

一階のレストラン「清助 Next Door」のオーナーシェフ・尾崎邦彰さん(左)

宿泊とレストラン、イベントホールが一体になった「on the 美一」のコンセプトや活動について話を伺いました。

[on the 美一]http://bi-ichi.com/

以上です。

二日間の日程でかなりぎっしり詰め込んだ内容でした! 取材で培った人のご縁がまたこうして次の縁につながっていくんだなと思いました。お世話になった佐渡の皆様、ツアー参加者の皆様、ありがとうございました。

2015年11月25日水曜日

次号のエリアマップ制作中

実際の雑誌にはめてイメージを確認したり

先週の後半から次号のエリアマップをつくっていました。弥彦山系を中心にしたもので、特集エリアのイメージがしやすいようにと、はじめての試みです。

「地図センター」というところで、地図データのダウンロード購入。刊行物に使用する際は、「国土地理院」の承認を得る必要があり、先週のうちに申請。先ほど、承認書が届いて、ホッと。

雑誌制作はいまだにわらないことだらけで、こういうのもイチから調べるのでずいぶん時間がかかりました。そして、地図に補足情報を入れようと、フォトショップでベジェ曲線を描こうとするもイマイチわからず。半日以上、唸りながら奮闘するも結局わからずじまい。くぅ...。よくはわかってないけど、イラストレーターでやったらどうにか思うようになりました。

マップは7割くらいできたかなと思うので、いま一度、他のインタビュー誌面の制作に戻ります。

それから、週末は二日間、佐渡に出かけてきました。取扱でいつもお世話になっているいわむろやの小倉館長から依頼をうけたツアーのお手伝いでした。後日、簡単な報告をアップできたらと思います。

うまく進むことも、そうでないこともごちゃまぜの編集現場ですが、とにかく1ミリでも前進を。

2015年11月21日土曜日

頽廃を回避するための摩擦への耐性



大きな事件・事故が起こると、人は多弁になる。

SNS上での発言はとくに顕著で、様々に流れてくる一家言の濁流に飲み込まれてしまうと、受け手は思考も気持ちも整理がつかなくなります。その中では、考えかたの違いや、意見の不一致を感じることもあります。「なんなら、俺も一家言」と思っても、もともと機転が利くほうじゃないし、ユーモアや毒っけにも乏しいため、いい言葉が浮かびません。時には、攻撃的な言葉が向けられることもあって、なんだか湿った暗い気分になってしまうこともあります。

結局、いつもできることは、時間をかけて自分なりに考え続けていくことくらいです。自分の凝り固まったアタマ、ジョーシキという岩盤に、ゆっくりと水が染みわたるのを待つかのように。

———

最近、『日本の反知性主義』に寄せられた、鷲田清一さんの「『摩擦』の意味」という文章をたまたま読んで、共感したので紹介します。

「摩擦を消すのではなく、『摩擦』に耐え、そのことで『圧制』と『頽廃』のいずれをも回避するには、煩雑さへの耐性というものが人びとに強く求められます」

「世界を理解するうえでのこの煩雑さの増大に堪えきれる耐性を身につけていることが、知性的ということなのです」

この夏の安全保障関連法案の可決、そしてフランスでのテロのニュースをうけて、それらの問題を考えはじめる足がかり、または向き合う〈姿勢〉として重要だなと思いました。

それから一昨日の夜、届いた荷物の梱包に使われていたくしゃくしゃの新聞(8/12付)をよくみていたら、川内原発再稼働が一面でした。3ヶ月前のことですが、もっとずっと前のようにも感じるというか、「遠くに置いておきたいなぁ」とも思っていた自分がいたことにはっとしました。

そして、一面の左下には、同じく鷲田さんの連載「折々のことば」があり、「哲学とは、みずからの始点が更新されてゆく経験のことである。」というメルロ・ポンティの言葉が紹介されていました。先の寄稿を読んだ印象を裏付けるような一言でした。

———

さらに話は飛びますが、今晩、編集室近くの医学町ビルで「パタのわ」という会が開催されるそうです。私が冒頭にあげた不全感、または「政治にたいするモヤモヤを話し合う」イベントだそうです。案内をいただき、興味と共感もあったんですが、仕事で参加できそうにありません。主催者の方々や、参加者の方々に、届いても、届かなくても...、気持ちだけでもここに記して、参加しようと思います。

2015年10月31日土曜日

ブックスはせがわさん(中沢・長岡市)へ夜な夜な車を走らせる

店主の長谷川敏明さん

時間は午前0時、夜な夜な車を走らせて長岡市のブックスはせがわさんへ。ブックスはせがわさんは、本日10/31をもって約40年の歴史に幕を下ろされました。

最後に顔を出してすこしだけ挨拶をし、什器を数点譲っていただきました。『LIFE-mag.』の取り扱いでもお世話になり、【シネ・ウインド編】刊行記念トークでもお世話になったお店です。

2014年7月30日のトーク宣伝用バナーで使用したもの

どのお店も商売も〈競争〉ですが、町から本屋が消えるというのは、胸を締め付けられる思いがします。ささやかでも鮮やかに、記憶に残る小さなお店が灯りを消すというのが残念でなりません。はせがわさんで最後に買った本は河合隼雄さんの『私が語り伝えたかったこと』だったなぁ。

ただ、実店舗は閉めますが、今後も配達やイベント出店は継続し、次の形態を模索していくそうです。『LIFE-mag.』も引き続き取り扱いいただきます。

まずは「お疲れさまでした。ありがとうございました」と。そして、今後もよろしくお願いいたします!

[Web]http://ameblo.jp/bookshasegawa/

2015年10月24日土曜日

[巻]竹野町「菖蒲塚古墳」誌面制作中

石仏を拝むとなんだか心が落ち着くんですよね。
編集室のある学校町の骨董屋にもいい石仏が売ってて。編集室前に欲しいなぁ。
あったら変か...。

22日は一日、編集室にこもって誌面制作でした。[巻]竹野町にある四世紀後半の「菖蒲塚古墳」についてです。

編者が訪ねたときの印象と、[巻]笹口孝明さんに紹介してもらった古墳に詳しい方へのインタビューを重ねて書きました。「祈ること」と「歴史を学ぶこと」は似ているといった結論で、コラム記事にしました。2ページの掲載予定です。

来週、校正のためインタビューさせていただいた方を訪ねる予定です。写真は菖蒲塚古墳で撮った一枚。

2015年10月22日木曜日

新潟県立文書館へ亀井功さんを訪ねて


昨日は、新潟県立文書館の亀井功さんを訪ねました。

次号の[弥彦]取材で弥彦燈籠まつりの同日に開催されている「松明登山祭」の記事を掲載します。その記事の補足で、明治に発行された高頭仁兵衛『日本山嶽志』(全国の山の解説事典)を引用します。

事典を読もうと県立図書館で開いてみたのですが、読めないという...。

たまたま校正打ち合せで[巻]横山作栄さんを訪ねたとき、明治の文書が読めなくて...、と相談すると亀井さんを紹介してもらいました。亀井さんは中学校の元教員で、郷土史を長く研究されてきました。『新潟県史』『巻町史』『吉田町史』では執筆者のひとりとして編集にあたったそうです。県立文書館では、古文書や古い行政文書の収集、読解、整理業務、そして、私のような県民からの依頼に応じて読解を行っています。

先週、はじめて訪ねて原文の読みとおおよその解説をしてもらいました。そして、持ち帰って自分で誌面用に打ち込み、現代語訳を行い、再度、確認をしてもらいたいと、再訪しました。

はじめてその事典を開いたときは、「これは日本語か? 漢文か?」と思い、亀井さんに聞いたら「あんたがいま使っているのと同じ日本語らて」「昔の人はこれが読めたんだ。教養の違いだて」と、ズバリ...。

頭上に「?」マークを浮かべっぱなしの私に対して、諸橋轍次『大漢和辞典』と『広辞苑』を使って読解、解説してもらいました。・・・「それはおかしい」「こういう言葉もあるよ」「それよりこっちのほうがいいんじゃないか」・・・亀井さんのその姿からは、なんというか、言葉に対する忠実さを見させてもらった気がしました。

それから、県立文書館から自転車をこいで編集室に戻りながら、ぼんやりと思いついたことがひとつ。

読解に使った『大漢和辞典』は下田出身の諸橋轍次、読みたかった『日本山嶽志』は長岡出身の高頭仁兵衛です。そして、もう一人、保田出身の吉田東伍は『大日本地名辞書』を記しています。それぞれ〈言葉〉〈山〉〈地名〉の語源を探るべく、小さな仕事を積み重ね、結果、大きな仕事を成し遂げた人物です。

実績も教養も到底足元にも及ばず、まだまだ小さな仕事を積み重ねるだけですが、私も新潟のそういった先人たちの下流にいるのかもなぁ、と。

いろんなことが、ずいぶんとイビツなままの媒体と編者だとは思いますが、そう思うとすこしだけ励みになるのでした。

2015年10月21日水曜日

斉藤文夫さんと「らーめん古潭」へ

この日は味噌ラーメンを注文しましたが、
よくよくメニューをみたら納豆ラーメンってあって
それも気になった。今度はそれにしょう。

昨日は誌面の最終確認で[巻]斉藤文夫さんを訪ねました。インタビューで二回、資料の補足・校正で三回お邪魔させていただきました。

ちょうどお昼になり、「らーめん古潭」へ一緒にラーメンを食べにいきました。誌面でも登場しますが、巻の郷土芸能「のぞきからくり」を斉藤さんたちは昭和51年に発掘、修復、上演します。その「のぞきからくり」が見つかった家はいま古潭としてお店を貸しているここのお宅なんだそうです。

他にもいろいろな生きる郷土史を聞かせてもらいながらの道中でした。次号では10ページの掲載予定です。

2015年10月20日火曜日

たっつぁんのまた会いたい人コンサートvol.2

[弥彦]二村建築社内スタジオにて

先週末は[巻]のフォークシンガー・横山作栄さん(通称:たっつぁん)の撮影でライブにお邪魔しました。といっても横山さんは主催者ということもあって、前座で二曲。

メインゲストは絵本作家また歌手として活動する中川ひろたかさんでした。才能に溢れるような方でした。
横山さんは中川さんとは三〇年近くに渡って親交があります。その縁を作ったのはコーラスグループ「メヂカラ」の小林光子さん。今回も二番手に登場しました。
中川さんは日本で初めて男性で保母資格を取った(1977年)方で、小林さんもまた保母さんということもあり研修を通じて知り合ったそうです。

フォークや童謡を感性のど真ん中に受け、子ども心を保ったままのオトナたちのライブという感じでした。横山さんの誌面は6ページの掲載予定で制作済みです。

2015年10月7日水曜日

「集落を旅する・写真展 Cultivate Village」@hickory03travelersさんへ

展示会DM

hickory03travelersさん(古町・新潟)で開催中の「集落を旅する写真展」をみてきました。観光ガイドには載らない、普通の暮らしを夢中になって撮ったという作品の数々です。四国、そして佐渡の写真もあって、私も取材で滞在した際、ふと目をとめた風景もあり懐かしかったです。

撮影者の山内響子さん(新潟市北区出身・東京在住)とは、じじ 神保町さん(神保町・東京)が主催してくれた「ローカルメディアのつくり方」というイベントにお客として来てもらっていて知り合いました。ごったがえす会場の中で、短い挨拶をしただけだったのですが、展示会情報を聞いて早速みにいってきました。

なんとなくですが、建築写真のセンスで撮られているような気がしました。ありふれた町の風景にある気持ちのいい〈線〉が飛び込んでくるようでした。その〈線〉とは山々の陵線であり、海岸線であり、葉や瓦、畑のうねの起伏などです。

さらに言えば、山内さんがみた〈線〉とは、その土地の人々のささやかな暮らしの中で、ゆっくりと、ゆっくりと形作られてきた〈線〉であり、それは時代の先端とは言い難く、いまにも消え入りそうな儚さや侘しさをもった〈線〉なのではないでしょうか。だからこその〈愛おしさ〉もそこにあるような気がしました。

ヒッコリー2Fです。入場無料、10/18まで。

ひとりでぼやっとみてたら、スタッフの小出くんに会って立ち話もできてよかったです。近くに出かける機会があればぜひ。

[山内さんサイト]http://hibikuko.jp/photo.html
[ヒッコリーさんブログ]http://h03tr.exblog.jp/23723991/

2015年9月22日火曜日

〈Special Interview〉成宮アイコさん「カウンター達の朗読会in北書店」によせて



八月の終わりに一通のメールをもらった。イベントの案内と取材依頼だった。

「様々な生きづらさを抱える人が、一瞬でも死なずに共感できる夜です。」とある。イベントは「カウンター達の朗読会」と題し、自作の詩と音楽、ライブペインティングによるパフォーマンスを行うとのことだった。

送信者は成宮アイコさん、強迫神経症と社会不安障害になり不登校を経験、また虐待やリストカットを経験しているという。いまだ自身を悩まし続けるその経験を詩にまとめ、吐き出すように朗読するパフォーマンスを行っている。

人の目を見てしゃべることすらままならなかった状態から、ライブを重ね次第に、いじめや家庭内暴力、鬱病やひきこもりなど様々な〝生きづらさ〟を抱える人たちがそのパフォーマンスに共感しながら集まってきた。

新潟で開催されていた「こわれ者の祭典」の月乃光司さんとの出会いから、成宮さんもライブに参加するようになった。「こわれ者の祭典」の東京開催でのライブを通じて、共感をよせる仲間に出会い、三人ではじめたのが今回、新潟で初開催となる「カウンター達の朗読会」である。

ライブは一〇月三一日、編集室からもほど近い「北書店」ということだった。そのライブに先駆け、成宮さんのこれまでのこと、今回のライブにかける思いを伺った。

成宮さんは昨年一〇月末から東京のライブハウス/イベントスペース「ロフト」で企画の仕事をしながら活動を続けている。帰省にあわせて九月一九日午前一〇時、シャモニー古町店でインタビューさせていただいた。


Special Interview
成宮アイコ[こわれ者の祭典]
「カウンター達の朗読会in北書店」によせて

——学生時代、不登校を経験されたとのことですが、どんな学生だったのでしょうか

友達はまったくいませんでしたね。

——たぶん同じくらいの年だと思うんですが。僕は八三年の一月生まれです

あぁ、同じ学年です。私は市内H高校でした。

——それだと地元から数人いってると思います。名前はなんだったっけな...

いや、言ってもわからないと思います、お互い(笑)。
私は卒業できるまでの残りの日数を部屋の壁に貼って、学校が終わるたびにめくっていました。卒業式になってもそうで、式が終わった後に友達同士で卒業パーティに行こうとかなるじゃないですか。でも私ひとりも友達いなかったので、卒業証書を持ってイトーヨーカドーにいきました。

——なにかあったんですか

そこの紳士服売場のトイレの前に自動販売機があって、その脇に白いプラスチックの椅子があるんですけど、そこだと同世代の人にぜんぜん会わないんです。在学中からよく行ってたんですけど、そこにいって卒業証書を広げて「あぁ、やっと卒業できたんだぁ」って思ったのが高校時代の一番の思い出です。
いまライブでそういうことを言うと「それわかるー」とか言ってもらえて、いままでわかりあえる人なんていなかったのに、自分では恥ずかしいことだと思うようなことを言っても、わかってもらえるんだって、毎回驚いています。めっちゃマジョリティじゃんって(笑)。

紳士服売場脇のベンチ(現在)

——高校は無事(?)に卒業したんですね

出席日数はギリギリを狙ってたので、休みがちでしたが。
友達...、いた時期もあったんですけど、やっぱり続かなくて。頑張っても疲れるから、だんだんもういいやってなっていきました。
その分、好きなことをもっと好きになろうって、いろんな本読んだり、いろんな人のインタビュー記事を読んだり。その時、マイナスだからやっていたことが、いまの仕事だったり、イベントに来てくれた人との共通点になったりしてます。だからあの時に無理しなくてよかったなってのは思ってます。

——どんなのが好きだったんですか

私、学生時代から『ガロ』や蛭子能収さんの漫画が好きだったんです。でも、こういうの読んでいるから友達ができないんだって、その時、一回持っていた漫画を全部捨てたこともありました。それでも変われるわけじゃなかったんですが...。
いまプレミアがついちゃってるんですけど蛭子さんの漫画をちょっとずつ買い戻してます(笑)。
高校入りたての頃は、ギャルになろうと思ったり、バンギャになろうと思ったりもしました。

——バンギャ...

ビジュアル系バンド好きなギャルです(笑)。CDを無理矢理買って聴いてみたり。

——僕は友達がいなかったってわけじゃないですが、特定のグループで仲良く行動するのができなかった。いまもかな

男子もあるんですか? グループって。

——バンド系、オタク系、体育会系、マジメ系とかでしょうか

私はどこに行ってもうまくはまらなくて。嫌われることをわざとするわけじゃないけど、同世代の人と無理に話してもやりたいことする時間が削られるし、好かれなくてもいいや、なんでもいいやって思ってました。
でも、卒業祝いとか羨ましかったです。すっごく。

——詩を書くようになったのはいつからでしょうか

その頃から詩を書いて個展をやるようになりました。高校の有り余る時間がものをつくるのにはちょうど良かったんですね。昔、プラーカに「P.PROJECTS」という小さなシアターがあって、ナシモトタオさんがやっていたんですが、そこに出入りしていたんです。

——僕も高校は帰宅部だったのですぐ家に帰ってましたねぇ

友達がいないお陰で時間だけはあったので(笑)。
そこの展示スペースを貸してもらって個展をやるようになりました。アンケート用紙に感想を書いてもらうんですけど、「私も学校に行ってないんです」という人がたくさんいて。
もともと自分もそういう人はいるだろうって思ってたので、「やっぱりいたか、だろぅ?」と思いましたね(笑)。

——学校以外の場所にかすかな希望はあったわけですね

自分が好きな本が出版されているってことは、需要があるから出版されているわけですよね。自分と同じ趣味の人がきっとどこかにいるはずだと思っていました。
そこでやっていた個展に、ある時、「こわれ者の祭典」の月乃光司さんが見にきてくれたんですね。

——おぉ! 偶然にもいろんな人が見にきてくれるんですね

月乃さんとはその個展の前に会っていて、当時、古町に「アナザーチケット」というライブハウスがあって、たしかNAMARAの江口歩さんに「金曜ロードクショー」というイベントがあるから来てみればって誘ってもらったんです。
そこに月乃さんが出てて、経歴を見るとアル中とかひきこもりって書いてあって「なんか変な人がいるなぁ」って思って。いまとなっては他の人はぜんぜん覚えてないんですけど、月乃さんがパジャマで「アル中になってよかったー!」って詩を絶叫してたんです。

——アル中や病気になったことがよかったことだと

それまで回りの大人からは「そんなことしててもなんにもなんない」とか「立派になるには」とか。本屋に行っても自己啓発本みたいなのがすごく売れてて。自己啓発本を書いている人と自分との共通点なんて一個も無いし、共感する部分なんもないし、そういうカッコいい大人、正しい大人ばかりだったんです。
でも、月乃さんはほんとにかっこ悪くてダサイ!って感動したんですね。

——ダサさに感動(笑)。本質かもしれませんね

それでアンケート用紙に「感動しました、ぜひサイトを見て下さい」って書きました。その後、私のサイトを見て個展に来てくれたんですね。

——アンケート用紙をちゃんと見て、実際に来てくれたわけですね

その頃、私は病気真っ盛りで、手が震えてたんです。なのでヨレヨレの字でした。その時は人の目をみてしゃべれなかったので。いまでも月乃さんに言われるんですが、この女の子には後で刺されるなって思ったらしいですよ(笑)。
歌手の戸川純さんが自殺未遂をしたときに書き残した言葉を、私は個展会場の壁に書いてたんですよ。「皆憎」って。月乃さんも戸川さんのファンで、その話で盛り上がりましたね。

——「こわれ者の祭典」に関わるようになったのでしょうか

「こわれ者の祭典」に入ったのは高校卒業して、専門学校に入ってからですね。一九歳の時だったかな。

——高校時代、鬱病だったのでしょうか

ええ、なんだったんだろう。お腹が痛くなって、教室や人が大勢いる場所に行けなくて。今日こそ行くぞってなっても、やっぱり帰るとか。病院にも通ってて、ずっと薬飲んでても治らないし、胃カメラ飲んでも原因はわからずでした。
「こわれ者の祭典」のイベントではまだステージに立てなかったので、机の真ん中にぬいぐるみを置いて、私は舞台の袖で朗読するだけでした。
「こわれ者の祭典」メンバーで定時制高校に行ったときがあったんです。その時もまだぜんぜんダメだったので、先生に言って「こっちを見られてるとできないから、机に伏せてくれないか」って(笑)。それで自分の朗読をやったんです。

——高校生の反応はどうでしたか

ライブする度にいろんな人が自分の症状を話してくれたんですよね。「私もそうでした」とか「橋を渡ると割れる気がして渡れないんです」とか、私よりひどくない? って言ったり。
全然違う症状の人や似たような人、話しても笑ってもらえたり「わかるー」って言ってもらえたり、そういう小さい経験が積み重なっていくうちに、少しずつ私も話せるようになっていきました。

共感する二人との出会

——今回のライブの共演者二人との出会いは

東京で「こわれ者の祭典」のライブをやったとき観にきてくれていたんですよね。葛原りょうは、切腹自殺を図ったことがあって警察に取り押さえられたことがあります。Tokinは解離性障害と双極性障害で、仕事中に倒れて閉鎖病棟に入院したことがあります。
SNSでも知り合いになってて、それぞれ作品をつくっていることもあって、少しずつ交流が生まれました。それで話していくといろいろと共感することがあって。
たとえば「24時間テレビ」が嫌いとか。障害者が頑張れば褒められて成功する感じで映すじゃないですか。でも障害あるなしに関わらずそもそも健常者も頑張ってるし、精神疾患のある障害者側の私は頑張らないことも多いし、みんな何かしら頑張ったり頑張らなかったりしてて、成功だけじゃなく当たり前に挫折も多いし。世間のキラキラ障害者みたいなイメージをつくっている気がして。
私は早く「こわれ者の祭典」が取材されたらいいのにって思ってますよ。これだけ長く活動して、本やDVDも出してるんだし。こわれ者の人たちが挫折するところを撮ってもらいたい。でもオファーが来る様子はまったくないです(笑)。

——三人でのライブはいつから

二〇〇九年からです。途中二年くらい空いた時期があって、それは三人が順番に具合悪くなっていたからなんです。もう開催は無理だなって思うような時期もあったんですが。
共感してくれるお客さんもいるし、なにより自分たちの目標のためにも続けなきゃ、そのうち誰かが生き倒れるって思って。次のイベントが予定されていれば、その時までは生きられるんじゃないかって。

——ライブまでの練習や準備にやることもあるし

ライブはポップさを重要視しています。シリアスなことをシリアスに言って泣けるのって簡単、だけど何も残らない。それよりも嫌なことを笑えた時の方が記憶に残るじゃないですか。
お客さんも「わかるー」とかって笑ってくれるのがいいですね。人間賛歌が一番の思いです。でもやっぱり、自分たちのためってのもおっきいです、ほんと。

——メールの投稿を読むこともやってるんですよね

「あなたの叫びをこの空間に泳がせます」といって、メールで受け付けたメッセージを私たちがライブで絶叫朗読しています。これは私の中ですごく大きなものです。
ライブに来たくても毎回参加できない人もいます。靴を履いて、電車に乗って、街を歩き、お金を払って来てくれる。これって超スペクタクルな冒険なんですよね。

——〝生きづらさ〟を抱える人にとってはかなりキツいですね

働いてない人もどうにかお金を作ってきたり、来たとしても混んでいる中に二〜三時間もいるなんて。それでメールでも参加できるというのは大きいです。
ライブで知り合ったお客さんの中にも自殺して亡くなったりとか多いですからね。
「最近、バイトをはじめたんです」って紅茶の缶を買ってきてくれた人がいました。その後、私の誕生日に近い日にライブの予定があって、「次のライブに行く時、プレゼントあるから〜」ってメッセージがきました。で、ちょうどその人のmixiで日記に「下北沢に行きました」って書いてあったんですね。私は銀杏ボーイズが大好きで、ちょうど下北沢限定のCDが発売されたときだったんですね。きっとCDだろうな〜って思ってたら、その日記を書いた数日後に自殺されたそうなんです…。

——ライブで知り合った成宮さんとの交流は、その人にとっては働く喜び、生きる喜びを与えてくれるものだったんでしょうね

それでも人は死ぬのかって思ってショックでした。一人でもそれが減ればいいなぁっていうのと、自分のためにもライブを続けています。
また誰かが具合悪くなるかもしれませんが、三人いれば誰かが元気なときってあるから、三本の矢なら大丈夫かなって思ってます。
でも、次回のライブ準備もラインで三人のグループを作ってるんですけど、だいたい誰か一人は既読になっても返信がない(笑)。

——最近も体調に波があるんですね。ギリギリの状態

具合が悪くなっても、ローテーションだから気にするなって言い合ってますよ。
自分が具合悪くて頼ると、頼られた人って次に困ったときに頼ってくれるんですよね。それが嬉しくて。最近は自分から頼ろうってずかずかいってますよ。

——いやぁ、「頼る」ってすごく難しいですよね

前にツイッターで「あなたがバトンを落としたら拾ってあげるから、私がバトンを落としたら全部拾ってください」ってツイートしたらたくさんの人がお気に入りに登録してくれて。なんだみんな頼りたいって思ってるんじゃんって、だったらわたしが先に頼るよって。

〈なりたい幸せ像〉〈感じる幸せ像〉不一致

——東京に出たきっかけは

東京に行くちょっと前が最高に状態が悪くて、家でもずっと床状態になってて。

——床状態って...

床にずっと寝てるというか。引っ越してから母親に言われたんですが、「あの時、会話しても無表情だし、どうしようかと思った」って。
新潟にいる時は、イオンに行く人が超羨ましかった、クロックスを履く人が羨ましかった。早く結婚して地元大好きマイルドヤンキーみたいになりたいと思っていた。でも、ぜんぜんそれをしたいと思えなくて。
ほんとにどうしたらいいんだろう。自分が〈なりたい幸せ像〉と自分が〈感じる幸せ像〉がぜんぜん一致しなくて。自分が感じる幸せが、この穏やかな日常に一ミリもなくて、その差を今後どうやって埋めていけばいいんだろうって思ってました。
その時、たまたま「こわれ者の祭典」が東京の「ロフトプラスワン」であって行って、もうダメっ、もう帰りたくないってなってたら、担当の人が「ちょうどいま一人たりないからうちで働けばいいじゃん」って言ってくれたんです。
もう誰にも言わずに「自分が感じる幸せはここにしかない」って思って決めたんです。

——ロフトは、音楽、芸術、映画、政治、アイドル、エロにあらゆる人が来る場所ですもんね

ここに来る変な人たちというか(笑)、人の本音の剥き出しの中にいるときが一番幸せを感じるんですね。
〈なりたい幸せ像〉はイオンに行くことだったんですけど、ほんとにその穏やかさは諦めないとって思って、新潟の生活を断ち切って引っ越しました。ほっこり系とか、癒し系とか、「ていねいな暮らし」系とか自分はいい加減そういうのにはなれないんだから。

——家庭菜園でハーブを育ててパスタに入れるとか?

はい、はい(笑)。趣味は山登りとか、いい加減諦めないかんぞってね。ロフトに声をかけてもらって、東京に出るということしか、生きる方法が見出せなかったんです。〈なりたい幸せ象〉と〈感じる幸せ象〉の相違が一番のきっかけだったかも。
それから、新潟の雑誌って、新店舗オープン!みたいな情報ばかりで、ぜんぜん興味を持てないじゃないですか。それを読んでも、自分がどこにいけばいいかわからなくなり、希望がなくなり...。何を目標にしてけばいいんだろうっていうときに、たまたま引っ越すきっかけをいただいたんです。

——僕もニヒリズムに陥りそうなときは日々あるなぁ

でも、『LIFE-mag.』は新潟ではカウンターじゃないんですか。

——僕なりに世間との不一致、居心地の悪さを感じているからこそこんなことやってますからね。それを感じなければこんなことをやってないわけで

そうですよね。じゃなきゃ、一人でこんな大変なことやりませんよね。
私も望んでやりたいかっていったら、できればやりたくないって思ってるし。イベントやるのってすごく準備が大変だし、ギャラがバックされるかどうかもわからないし、人を集めるのも大変。チケット売れるのかって、新しい詩を書かないといけないかなとか。
やらなくてすむならやらないですむ人生がよかったけど、それが自分の感じる幸せだからやるしかない。

——どうこの詩、この雑誌、素敵でしょ? どや! じゃないですよね

はい。

——僕も、カッコイイね、クリエイティブだねと言われることもあるけど、批判や冷笑もされます。でも、いまはこれが仕事でもあり、自分の生き方になっているから苦しいことも含めてやっている感じかな。

機能不全家庭って

——話が戻りますが、高校を出てからはどうしたんですか

ウェブ制作を学ぶ専門学校に行きました。その後、ウェブ制作の会社に。大好きだったんですけど、あまりに忙しすぎる会社で、体調を崩して辞めました。それで別のウェブ制作会社に行ってましたが、すごく無理矢理通っていました。

——病院には

行ったり、行かなかったりですが、病院にはずっと通っていました。いまは睡眠のプレッシャーだけあって、それだけ飲んでます。葛原とTokinの二人は行ってるので、私だけマイノリティって言われてます。

——え〜っと、病院に通っていない人が少数派?

ライブ会場では、病院通ってなくて元気な人に対して「マイノリティだねー」って笑ってます。そういうの笑って軽々しく言えるのがいいなって思います。

——チラシのプロフィールに機能不全家庭で育つってありますが

祖父から虐待を受けていました。

——ひどい虐待だったんでしょうか

そうですねぇ...。
小さい時に安全、安心を感じられないままもの心がついてしまうと、それに引きづられるんですよね。どんな立場でいればいいのかずっとわからなくて。
来るお客さんたちもけっこうそうで、距離感がへんな人って多いですよ。すごい遠いとか、すごい近いとか、話しながら自分みたいだなって思って。いまはそれがすごく面白いです。

——家で虐待となるとひきこもるわけにもいかないですね

そうですね。それでイトーヨーカドーへ。
いまでも新潟に帰ってきても、どこにいけばいいんだろうって思ったりします。新潟への愛憎はすごくあって、出たいとか、居たいとか。その差を埋めるためにも、新潟でのライブはやらなくちゃって。
地方に行けば行くほど、メンタルヘルスのことや、生きづらさを抱えていても、誰にも言えない人はたくさんいると思います。新潟は自殺率が高いんですが、そういった対策を行政・福祉関係者だけでやっているからつまらないとも思います。
人はどんどん死ぬんですよね。私たちのライブがみんなを救えるわけじゃないですけど、一瞬でも死なずに共感してもらえるものになればと思います。
ライブはポップに明るくやりますよー。(完)

[イベント詳細]http://counter.hotcom-web.com/wp/

フライヤー表
フライヤー裏

2015年9月9日水曜日

斉藤文夫さん取材に[巻]エリア、福井地区へ

佐藤家にてインタビュー

次号の[巻]エリアの取材で、写真家の斉藤文夫さんを訪ねました。

斉藤さんは旧巻町福井地区に生まれ育ち、そしていまも暮らしています。現在、82歳。

干拓前の地元福井の過酷な農作業の様子を記録に残したいとカメラを向けはじめた話。「鳴き砂」「毒消し売りの里」そして「東北電力の原子力発電所建設計画」があった角海浜集落へ通いはじめ、そこでみたこと、感じたこと。

その後、「巻町ほたるの会」の立ち上げ、角田山の麓一帯の豊かな自然体系を通じたまちづくりを行ってきたこと。ほたるの生態系を守るため矢垂川の護岸工事に反対し、計画を見直させたこともあるそうです。

そして「福井旧庄屋佐藤家」の保存活用を行ってきたこと。佐藤家では、囲炉裏を囲んで様々な展覧会や講演会、芝居やコンサートが行われてきました。今年の夏も「戦後70年 村に残された戦争の足跡」が企画、開催されました。

歴史と文化と自然を愛で、多くの人と記憶をつないできた斉藤さんの半生を伺いました。



※取材後、角田山の沢水がさらさらと集落を下る音に耳を澄ませながら、ひとり二時間ほど裏山に入ったり、小路に入ったりして福井地区を歩きました。四世紀の古墳から、三根山藩主の墓、北国街道、そして饅頭に柚餅子まで、歴史の声を聞きながら。


10分くらい歩くと着きました。雨上がりで蚊がたくさんいた...

線刻三十三観音への林道。霊場入口とだけあって、ひとりは怖かったッス

2015年8月4日火曜日

弥彦神社取材中

6月取材時/右・金子権宮司

暑い日が続きますね。ここしばらく慌ただしく、机にゆっくり向かえない日が続きましたが、今日はすこしまとまって編集室にいられそうです。ただ編集室はクーラーが壊れてるので、朝夕の打ち水と気持ちでカバーです。

弥彦燈籠まつり(7/25)では取材撮影と合わせて、前日の村内回りで氏子青年会の皆さんと燈籠を一日担いでまわりました。日頃の運動不足もあり、翌日からバキバキの筋肉痛が一週間くらい続きました。なおったかなと思ったら背骨の痛みが残るという...、なんとも貧弱な身体を自覚する機会になりました(汗)。

昨日はインタビュー原稿の打ち合せで弥彦神社の金子権宮司を訪ねました。弥彦神社の御祭神について、神社の歴史、穢れや祓いとは、祝詞とは、日本の神様とは、神道とは、パワースポットとはなどをインタビューしています。かなり長いインタビューになっていて、私の表現の不備、言葉足らずな点などを補足・修正していただきました。

写真は6月取材時のものです。まだ補足の原稿作成、撮影などがありますが、いい記事になるよう引き続き制作を進めて行きたいと思います。

蛇足:昨日打ち合せを終え、拝殿前を通るとき突然目の前が暗くなり、歩くのを止めました。とくべつ体調が悪いという自覚もなかったのに。みなさんも暑さに気をつけてくださいませ!

2015年7月20日月曜日

弥彦神社氏子青年会の禊に同行、撮影

寺泊野積浜にて

18日の夕刻、弥彦神社氏子青年会の禊(ミソギ)に同行、撮影させていただきました。25日の灯籠祭りにあたって、祝詞をとなえ、海水をあび、心身を清めるものです。

会長に今回の撮影をお願いすると「いいよ。でも、俺たちと同じフンドシで来てね」小林「えっ、マジっすか!? 撮影するだけですけど」会長「うん。マジだから。あとハチマキも忘れないでね」とのことでした。ということで撮影者の私も青年会の皆さんと同じカッコでした。

終了後、直会にも参加させていただきましたが「禊之証」という木札をもらいました。たしかにフンドシ&ハチマキで撮影していましたが、「禊やったじゃん。いいよ、もらって!」と声をかけてもらい、なんだか妙に嬉しい一体感をここで。

参加前、フンドシってどこで買えるか、着物屋や伊勢丹というアドバイスももらったのですが、結局、寄る時間が取れず近所のワークマンへ。レジのおばちゃんに聞くと、店長を呼ばれ、店長からサラシでフンドシを締めるやり方のレクチャーを店内で受けました。その様子を見たレジのおばちゃんからは、温かい笑いがこぼれていました。

2015年6月29日月曜日

いろり座談会vol.2 にいがた稲作文化シンポジウム「暮らしの骨格」

ゲストの方々。右から斉藤文夫さん、山上力さん、五十嵐稔さん、
結城登美雄さん、主催者の桾沢厚子さん、奥が桾沢和典さん。
会場の様子

2015年6月28日(日)13:00〜16:00に福井旧庄屋佐藤家で開催された「いろり座談会vol.2 にいがた稲作文化シンポジウム『暮らしの骨格』」にいってきました。開催主旨は上記リンク先に詳しいです。

ゲストのひとりだった、民俗研究家の結城登美雄さんの発言から一部を私が要約したものが以下です。

「いろり」に灯された「火」は暮らしの中心にあり、その周りには、家族、友人、近所の人などが集まっていた。そこは、ただ仲がいい人同士で集まるのでなく、「気心」を使い合って様々な人が居ることのできる場所だった。

昭和30年代から次第に石油・石炭などのエネルギーを使ったストーブがそれに替わりはじめた。「巻を積んでおく」ということも減り、山が荒れる原因のひとつともなった。

暮らしの中心にあった「火」はつくるものであったし、そもそも暮らし自体も「つくるもの」だったのが、暮らしも「買うもの」に変わっていった。

しかし、ただ単純に「昔のものいいよね」だけでは、時代がどう変わってきたのかをつかみ損ねる。農山村をはじめ当時の人たちが暮らしをつくるのにどれだけの苦労をしてきたのか。「炊飯器がきたときには、手を合わせた」という話もある。

いまの時代に「いろり」のような場をつくるなら、イギリスやアイルランドにあるようなパブにヒントがあるのでは。宮城県宮崎町で食の文化祭をやった。はじめ「ここにはなんもない」といっていた住民からいつもの食卓の郷土料理を持ち寄ってもらった。会場は大盛況。農山村にねむる多くの宝をしっかり発信して、「農村パブ」を開いては。ノーパンパブじゃないよ(笑)。

以上です。去年の「いろり座談会vol.1」に続きいいイベントでした。イベントの詳細報告が、今回の主催者・Bricoleさんが発行するフリーペーパー「ひとひら」に載るそうなので、そちらも楽しみに。

私もパブやサロンを持つことにずっと憧れがあるので、自分がこれからやりたいことに引きつけて話を聞いていました。「編集室パブ」のような場をつくって、そこでトークイベント、シンポジウム、展示会をやり、その記録が雑誌になったり、逆に雑誌に載った人、その地域や作品、商品に触れられるような場所ができたらなと思っています。

どうなるかわかりませんが、ま、夢はでっかく(笑)。もう少し根を深くはろうと思います。

また、同じくお客として来ていたからから、次号『LIFE-mag.』巻エリアでの取材情報ももらえたのでなおよかったです。ありがたや。

2015年6月28日日曜日

弥彦燈籠まつり村内講中合同練習

昨日は、弥彦神社の弥彦燈籠まつりり村内講中合同練習の撮影に伺いました。木遣り歌やお囃子の響きはやはり魂を揺さぶるものがありますね。本番は7月25日。




2015年6月26日金曜日

岩室中学校へ



昨日は、次号【寺泊・弥彦・岩室・巻編】のエリアにある岩室中学校で職業講話の一コマを担当しました。1年生約60人です。いまの仕事に就いた経緯、仕事に対する思いを話してもらいたいという依頼でした。

生徒たちがいまの私の年になる20年後、2035年はどんな時代になっているんでしょうか。「東京五輪」から15年がたっています。「拡大成長」というよりは「縮小均衡」の時代を生きていくんだと思います。

どんな仕事に就いたとしても、自分の中にこんこんと湧き出る好奇心を大切にしてほしいなと思います。その対象は国語、英語、数学、理科、社会など先生から評価されやすいもの、いまのクラスの雰囲気や流行とかけ離れているかもしれません。「わかりあえるヤツなんていねーし」と思っている人もいるかもしれません。

それでもなお、わりきれず、いびつで、極端で曖昧なその思いをぐっと手放さす、大切に育てて欲しいです。時代や環境や立場が変わっても、より楽しくより豊かに生きていく力はそうやって育まれるんじゃないか、そんなことを考えながら話してきました。

2015年6月24日水曜日

福島から取材に



先週末から佐藤孝一さんという福島県南相馬市在住の方が『LIFE-mag.』の制作エピソードを映像にしたいと取材に来ていました。さきほど(6/24、0:30)すべての取材を終え福島に帰っていきました。

隣県を含めた各地域で独自の活動・事業に取り組む人を取材し発信するウェブサイトをこれから立ち上げ予定とのこと。

制作にかける思いをインタビューしたいということと、『LIFE-mag.』が過去に取材した人、取り扱い店、またその後も関係が続いている人や、お互いに刺激を与え合っている人などからもコメントをもらいたいという依頼でした。

6/20は午後から『LIFE-mag.』の取材・撮影に同行。6/21は佐藤さんは自分で三条エリアを取材。6/22は日中一緒に取材させていただいた人、取り扱い店さん回り。6/23は22:00に編集室に来てもらって、約90分のインタビュー収録でした。

写真は、シネ・ウインドの齋藤代表にコメントをもらいにいったときのものです。手前が佐藤さん。各方面の方々からお時間いただきコメントを寄せていただきましたこと、私からも感謝します。ありがとうございました。

なかなか手間をかけた取材で(すでに自分の仕事だけでアップアップな時期で)したが、佐藤さん(25歳!)の姿に『LIFE-mag.』創刊当初の自分を重ねるところもあり、なるべく有意義な取材になるようお手伝いさせていただきました。

創刊当初、私自身の不徳の致すところだと思いますが、「めんどうだなぁ」「取材した後で、お金ちょーだいとかってないよね?」「ハ? なにその雑誌(ジロリ...)」と言われることもありました。(いまもある話だけど)

どんな事業でもそうだと思いますが、お客様や地域の人の信頼を得ていくことはほんとうに大変です。「これからメディアを立ち上げる〜」ということは、さらに苦労も多いと思いますが、やり甲斐も十分あると思います。

微力ながら佐藤さんの活動も新潟から注目、応援していけたらと思います。ウェブサイトと映像は9月頃の公開を予定しているそうです。その時は、またこちらでも案内させていただきます。

完成した映像が、福島と新潟、また他の地域を結ぶささやかなきっかけになることを願っています。


早速、自宅で「三五八」を使って野菜を漬けてみたけど旨かった〜