2014年11月25日火曜日

新潟・市民映画館シネ・ウインド29周年祭「劇場版テレクラキャノンボール2013」上映&監督トークに行ってきました

『LIFE-mag.vol.007』で特集した「新潟・市民映画館シネ・ウインド」は、昭和60年12月7日に開館しました。今年で、29周年です。

毎年、11月には周年祭と題して監督トーク付きの上映会や、にいがた映画塾さんの自主映画上映会「にいがたインディーズムービーフェスティバル アンタの映画見せてやれっ!!」(今年は第18回)、年度によっては落語会や演奏会なども企画されてきました。最終日は「周年祭パーティ」が万代シルバーホテルで開かれ、シネ・ウインドの会員や映画監督、スタッフなどが一緒になって、シネ・ウインドの誕生を祝います。



2014年11月21日(金)19:30〜は、「劇場版テレクラキャノンボール2013」の上映と監督のカンパニー松尾さん、そして「プロレスキャノンボール」を製作中の新潟市在住マッスル坂井さん(スーパーササダンゴマシン)のトークがありました。

映画は、AV監督6人が東京から仙台を経由して札幌を目指すレースを追ったドキュメントです。目的地までのスピードを競うことと、各地点で女性を口説き(路上、テレクラ、出会い喫茶などを使い)セックスをして、そのポイントを重ね優勝を目指すものです。

この日、会場は満員の約100名。椅子が足りなくなり補助席を使っての上映でした。カップルで来ている人や女性一人でのお客さんも多くいました。

内容は、「ネタバレ禁止」ということなので、一言だけ感想を。

登場するAV監督も素人女性も何か大きな欠如と何か大きな過剰を抱えているような気がしました。それはそのまま社会のそれを映しているようにも思えました。
AV監督たちは自分の好みの女性を探して〜、というわけではありません。身体を張って、傷を追ってポイントをかさねていく姿を「笑い」に変えていく編集が効いていて、会場は何度も爆笑に。

上映後のトーク

上映後のトーク写真を撮らせていただきました。
マッスル坂井さんは今回で3回目の鑑賞だったようです。


トーク写真その2


マッスル坂井さんから、『テレクラキャノンボール』に影響を受けて、『プロレスキャノンボール』を製作したこと。水道橋博士がカンパニー松尾さんと作品を、絶賛していることなどが語られました。またカンパニー松尾さんは、新潟県阿賀野市の水原自動車学校でバイクの免許を合宿で取り、毎晩、新潟市のテレクラまで出かけて新潟の女性と遊んだというエピソードも。

お二人ともやはりプロのエンターテイナーというか、話が上手かったです。

それと今回の上映は、ひとりのお客さんの企画・提案でのイベントだったそうです。アベゾンビさん(twitterアカウント)が、ウェブからカンパニー松尾さんに連絡、そして場所はと考えシネ・ウインドへ連絡。普段からシネ・ウインドの会員だったわけではなく、知り合いがいたわけではないそうです。

トークでも話題になりましたが、(カンパニー松尾さん)「主催のアベゾンビさんにはさっき初めて会いました。twitter名からして、なんか暗い感じの人かと思ったら、むしろ爽やかな感じでいけてる人でした。こういう場を作ってくれて彼にも感謝です」

(マッスル坂井さん)「僕もさっきトークの内容どうしましょうかねって聞いたら、がちがちに緊張してて、す、す、すごい人はいってますね。。。お、お、お任せしますって(笑)」

(カンパニー松尾さん)「他でもし上映会をやってもらえるようでしたら、ウェブから普通に問い合わせてください。僕が対応しますので」とのこと。

映画の内容はどの映画館でもやれるものではありません。都市によっては、ライブハウスなどでの上映になることも。

こういったイベントは、シネ・ウインドという場の可能性と市民との関係が現れた企画だと思いました。以上、ウインドの周年祭企画にお邪魔したレポでした。

2014年11月17日月曜日

佐久間裕美子「ヒップな生活革命」ツアーin北書店に行ってきました


入口の看板

アメリカ・ニューヨーク在住の佐久間さんがリーマンショックを挟んで感じたアメリカでの消費観、価値観、生き方の変化をまとめたものです。大企業主導による大量消費ではなく、身近な衣食住から自分たちの手で、仲間で、土地で生活をつくっていこうとするムーブメント=「生活革命」。またそうした生き方をしている人やお店、取り組みを「ヒップ」と呼ぶようです。

今回のトークツアーは、熊本、福岡、京都、大阪、東京などを回って行われ、新潟が最終着地点。佐久間さんは「ツアーをやってきて、日本にもすでに『ヒップ』な人たちはたくさんいるんだなってあらためて思いました」「今度は日本の取材もしてみたいですね」と話していました。

イベントの前に本を読んでみて、私もそう思っていたのでその一言で、共感と安心が。この新潟の街にもそういう人、お店、取り組みはありますよね。

トークでは、「ヒップな生活革命」をインターネットの普及、活用が後押しした面があるけれど、ツイッターのフォロワーがたくさんいたり、全国誌で取り上げられて有名になっていくことと、実際に個人経営の小さな本屋で本を買う人の数、売上は比例しないという北書店・佐藤さんの悩みをぶつける場面も。

するとニューヨークの個人経営の書店でも、家賃を下げてもらうかわりにテナントの掃除をする本屋や、地元の美術学校と連携してトートバックを商品化したりなど、「それぞれいろんな工夫をしながらやっています」という話が。あとニューヨークでも個人経営の書店主を取材すると、「ほとんどの人は機嫌悪いですよ、話の9割は文句だし(笑)」と佐久間さん。

ただそこには佐久間さん自身の本屋への強い思い入れもありました。

「日本にいた頃は、やー、もうここでは暮らしていけないって思ってました。友達も一人くらいしかいなかったし。家の中にも居場所がなかった。だから近所の本屋が開いてるとそこに長居してたし、そこが居場所みたいなもんだった」

という背景もあったそうです。さらにこんな言葉も。

「(こういう時代に個人経営の書店をやってるなんて)もう存在自体が啓蒙的」。

並々ならぬシンパシー。

それでも現実は、郊外型ショッピングモールや大手チェーン店で消費をしているという人がやはり圧倒的大多数です。新潟の街だけをみても、例えば5年、いや1年というスパンでも多くのお店がシャッターをおろしてきました。

会場からの意見で、「イオンが悪いみたいに言われることもあるけど、僕はイオンにも行くし、北書店にも来る。どっちも楽しんでいます」と。

それを佐藤さんは「俺はプロレスでだいたい説明できると思ってるよ」と独自の言葉で説明。大型店も個人店も表裏一体で、どちらもあって、どちらも引き立て合っていると。それを「プロレスでいうなら、ジャイアント馬場とアントニオ猪木、全日と新日の関係のようで、お互いを批判しながら、そうすることによって支え合ってるんだよ」と。

ここで佐久間さんも会場も納得と爆笑。
「佐藤さんはどっち?」
「俺は馬場ね。なんとなく暗さにもひかれるし(笑)」

ほかにもたくさん聞きどころはあったと思いますが、私が印象的だったのはこんなところです。

アイデアインクシリーズ
佐久間さんの本は左奥で
積み上がっているのです

ここからは私の雑感です。

私は10代の頃、アメリカのスケートカルチャーになによりも影響を受けてきました。中学、高校と教科書よりも「THRASHER」や「Transworld Skateboarding」を開いている時間のほうが長かったくらい。スケーターである彼らこそが先駆的に「生活革命」をやってきたような人たちだよなぁと思いました。

80〜90年代、アメリカのスケーターたちは自分たちでブランドを立ち上げ、スケートボードを作り、服を作り、靴を作り、ビデオを撮り、仲間の作った音楽を入れ、プロモーションでツアーを組んで世界中を回っていました。そしてそれを伝える雑誌メディアもスケーターによるものでした。

日本の片田舎・村育ちの少年にとってこのアメリカのスケートボードシーンはなによりの憧れの的でした。わたしは、私にとっての「ヒップスター」=アメリカのスケーターから、そのインディペンデントな生き方、(「ヒップ」な)アティテュードを学んできました。

10代の頃、あれだけ毎日乗ってたスケボーもいまではたまに気分転換で乗るくらいです。それでも、今年スニーカーを買い換えるときやっぱりスケートブランドの「emerica」を購入。スケータースピリットみないなのが抜けないんです。

佐久間さんの話や著書から、そんな自分の原点をあらためて確認していました。

それといま私が編集発行している『LIFE-mag.』もまたこの「生活革命」にすこしは関係するのかなと共感とともに聞いていました。思い立ったのは2007年夏、そして2008年6月に創刊した小さなローカルインタビュー誌です。

自分たちの暮らす地域には、テレビには映らない、マーケティングされない、もっと多様な生き方や価値観を持った人がいる。そしてそのことを知ること、問題を考えることが、逆に世界とつながっていくことになる。

はずだ・・・、という(当時24歳・新聞配達店勤務による)思い込みと使命感にかられてはじめたものでした。

いまだ、文章や写真、デザイン、企画、コンセプトなど雑誌を構成する多くのことがずいぶん未熟だし、手触りも歪だと思います。経営的にも安定した背もたれは何もないし、毎号が綱渡りです。些細な風向きの変化次第で・・・、という状況です。

ときに革命は短命に終わります。

どうすれば長く続くのか、自分の中で明確な答えはありません。ただアメリカに、日本にも、日本の他の街にも、そして新潟にもいる、「生活革命」者の存在にすこし背中を押されました。

とにかくいま持てる力を出し切ること、かな。
あとはどうなるか、、、わかりませんね。

2014年11月9日日曜日

医学町ビルで行われた映画「カンタ!ティモール」上映会に行ってきました



映画「カンタ!ティモール」の上映会に行ってきました。2014年11月8日(土)19:00〜、編集室からもほど近い医学町ビルで行われました。

医学町ビル2F、感想と食事をここで。
上映会は3Fのもう少し小さい部屋でした。

今回の上映会は、主催の亀貝さんが友人・知人らに声をかけて行われた小さな上映会です。会場の医学町ビルはいまは空きビル(2〜3階が)ですが、「越人会」という有志の方々が集まってこれからの活用が模索されている建物です。

2時間の上映会後、参加者で感想を語り合うというものでした。20名ほどの参加者は、半分くらいは面識のある方でしたが、あと半分はどこかで見かけたことがあるけどちゃんと挨拶をしたことがない人、そして初対面の人でした。

映画の内容は、東ティモールの独立紛争を生き抜いた人々を訪ね、その人々の暮らし、思いを記録したものです。東ティモールは16世紀前半にポルトガルに占領されて以来、長く大国の占領下にあった歴史を持ちます。映画では特に1975年、インドネシアによる侵攻からの歴史が紐解かれていました。

親友が殺された人、半年以上毎日レイプを続けられた人、目の前で家族全員を殺された人、まだ小さかった頃姉が目の前でレイプされた人、拷問で4度仮死状態にさせられた人、手足を縛られ崖から落とされまだ息があるのが知られるとナイフで4ヵ所刺されそれでもはみでる腸をおさえて逃げ生き残った人などが登場して、当時の状況を語ります。その時折、拷問や虐殺の実際の写真が挟まれます。

そしてその凄惨な映像と激しいコントラストをもって、東ティモールの子どもたちの笑顔の映像、ギターの音楽にあわせ歌をうたう様子が映し出されます。

東ティモールの独立運動に関わる人がインドネシア軍に捕まると、拷問と虐殺が繰り返されましたが、逆にインドネシア軍兵士が東ティモールで捕まったときその対応はまったく違いました。東ティモールの人たちはインドネシア軍兵士に自分たちが「平和」を望んでいること、争いたくないことを伝え、武器のみ奪いそのまま帰すことを繰り返しました。

ここからは感想です。

映画を観ている最中は、呼吸が浅くなり、何から考えていったらいいのかわからずただただ動揺するだけした。「え、この映画みて、他のお客さんたちの前でなにを話せばいいんだろう…」とも思いました。

映画を観終わって「それではみなさん、簡単に自己紹介と一言ずつ感想をお願いします」と言われ、まず私が口にできたのは、いま自分が手にしている「平和」はどういったものなのか。東ティモールの人たちが口にしていた、望んでいる「平和」とそれは同じかという葛藤でした。

私はその日、朝8時に子どもを保育園に送り、9時前に編集室に出てきて仕事をはじめました。午後からひとつ撮影にでかけ、帰り際にコンビニで菓子パンをふたつ買って簡単な昼食にしました。編集室に戻りデータや資料を整理していると妻から「週末だし簡単に今日は焼き肉しない?」と電話がありました。夕方4時半、一度自宅に戻り、近所のスーパーに買い出しに行き、国産の肉とアメリカ産の肉を買いました。5時半から1時間かけて家族3人で焼き肉をしました。ご飯を3杯食べたので、上映会後に用意されていたワンプレートの食事がお腹に入りませんでした。上映時間に合わせて、自転車で出てきました。出がけに「パパ仕事いってくるね」と子どもに言うと「やだー」と返ってきましたが、そのまま出てきました。私にとってこれも「平和」だし望むことです。

個別、具体的な「平和」を詳らかにすること。しかし、そうしてみて自分の中に湧き上がるのは、消化不良のつかえです。夕食を食べ過ぎたつかえではありませんでした、たしかに。

(映画で描かれていましたが)インドネシア軍が東ティモールの人の死体を運ぶトラックは日本製の日野トラックでした。日本は1976年、国連軍がインドネシアの侵攻に仲介すべきかという決議をアメリカ、オーストラリアとともに反対しました。太平洋戦争時、日本軍は東ティモールを占領していました。

その延長線上に私の「平和」があります。東ティモールの人々がいう「平和」と私が漫然と無自覚に貪る「平和」は同じなのだろうか。いつもそうストイックになる必要はないと思いますが、たまにはそう考えてみました。

東ティモールの人々がこの暮らしこそ「平和」なんだ、それぞれの暮らしをよくしていくことが世界の「平和」につながるんだと言っていました。

もうひとつは、すこし大きな話ですが、国家・軍隊が暴走したときの怖さです。1999年、インドネシアは東ティモールの独立を認めるのかどうか住民投票を行いました。結果、約7割の国民が独立に賛成。独立が認められるかに思われた直後、インドネシアの独立反対派勢力は、東ティモールへのさらなる攻撃をはじめます。長い紛争で疲弊した東ティモールの集落、民家の約9割を焼き払いました。住民投票という手続きを経てもなお国家・軍隊は暴走を続けました。

東ティモール沖には石油や天然ガスがあり、インドネシアとその背後にいるアメリカや日本など大国がその経済利権を狙い、支援に加わっているとも指摘されていました。そして現在も局地的な紛争が続いていると。

上映会後、私はこんな主旨の感想を述べました。
一夜明けてこのブログを書いているいま、目の前の暮らしにすこしフラつきを感じています。いい小説を読んだような、いまこの現実からひと続きの、向こう側にいって戻ってきたような感覚が残っています。

感想は以上です。
あとこの上映会自体について感じたことをすこし。

一言でいえば「映画を観て感想を共有しよう」というイベントです。しかし映画は「愉快痛快、観終わってスッキリ〜!あ〜、ストレス解消」というタイプの映画ではありません。(もちろんそういう映画が悪いといいたいのではなく)。

私は自分が感想をいう番で話して、あとは小さなグループに分かれそれぞれに話し合っているときにぽつりぽつりと感想を言ったくらいです。その後、面識のある参加者の方に、好きな音楽家のライブやCDの情報を聞いたり、カメラのスペックを聞いたり、近況を報告しあいました。

一人で観ていたらきっとどんよ〜りしていたと思います。もしかしたらその後もなるべく考えないようにしようとしていたかもしれません。しかし重い内容の映画を観たにも関わらず、わずかな安心感と希望がありました。不思議でした。

ひとつは場づくりの工夫があったんだと思います。

あたたかい飲食とストーブの炎

あたたかいお茶と珈琲、美味しい料理があった。これにはずいぶん救われました。みなで円になる中心にストーブの炎があった。友人・知人だけでなく知らない人もいるというユルすぎず、キツすぎない雰囲気があった。何人かの方がゆるやかに話し合いをリードしてくれた。───そんなことも関わっているのかなと。こんな場をもてるというのも「平和」なのかもしれませんね。

2014年11月2日日曜日

村上市高根集落にて、都岐沙羅パートナーズセンターの斉藤さん再取材・撮影

今日は、「都岐沙羅パートナーズセンター」の斉藤さんの再取材・撮影で村上市高根集落に行きました。集落の方々と学生とで「高根みらいづくりワークショップ」が行われました。オリエンテーション〜まちあるき〜ワールドカフェ、そして打ち上げという流れでした。斉藤さんはファシリテーターを務めていました。

私も打ち上げに参加させていただきましたが、高根集落の方のヨソ者に対する心の開き方、ここでの暮らしを楽しもうという心意気、芸人っぷりにはとても驚かされました。「観光地化したいんじゃない、人口を無理に増やそうってんじゃない、ここにある、また受け継がれてきた暮らしを発信しながら、いかに楽しく暮らしていくかってことをやってるんだよね」という言葉は特に印象的でした。

また取材前に早く着いて時間があったので、廃校を活用した「山のおいしさ学校・食堂『IRORI』」にも寄りましたが、そこも集落の方によって運営されている施設でした。運営にあたる「高根フロンティアクラブ」さんは立ち上げ期の頃より、「都岐沙羅パートナーズセンター」さんと共に事業を育ててきたそうです。

合間を縫って補足の写真撮影と追加インタビューをさせていただきました。

まちあるき1
まちあるき2
ワールドカフェ
IRORIでいただきました。
今日から新蕎麦でした。
地区内の神社に奉納される相撲の様子。
ぜひ見にいきたい。
林業が盛んだったこともあり
公民館には鉈が多く展示されて
いました。