2012年11月10日土曜日

堀文子 「命といふもの」、「無心にして花を尋ね」

LIFE-mag.vol.5で取材させていただいた、佐々木玲子さんの言葉がその後もずっと気になっていた。

「さらに初心に返ってみると大学の担任の堀文子先生にたどり着くんですね。堀先生は現在94歳で、いまでもとてもいい絵を描かれています。82歳でヒマラヤに花をスケッチに行ったり、77歳でアマゾン川、マヤ遺跡、インカ遺跡にスケッチ旅行に出かけたりと、創作に対する情熱をいつまでも絶やさない方です。副担任だった中野嘉之先生も今でも精力的に活動されています。
 自分の恩師は本当に凄いんだなと、私も年を重ねて実感しています。恩師の生き方を通して学んだこと、日本画で培った価値観をガラスの上で表現していきたいです。」(LIFE-mag.vol.5、53p)


佐々木玲子さん取材時にLIFE-mag.撮影

堀文子先生とは、一体どんな方なんだろう、そう思い画集をあたってみることにした。
絵と言葉の力に引き込まれた。生命のエネルギーは、高齢を迎えたいまもなお尽きることなく、その豊穣さは一層増すかのような、印象を受けた。私の余計な解釈よりも、ぜひ堀先生の言葉に耳を澄ませてもらえたらと思う。自分が振り返って読むためにも長くなりますが引用文を記録しておきます。
雑誌『サライ』で連載されたものを『命といふもの』堀文子画集、1・2集(小学館刊)に纏めたものより。



秋田県北西部から青森県南西部にまたがる白神山地を訪ねたさいの言葉

 山を崩し森を伐り自然を壊し続ける日本に、世界が注目する橅の純林がなぜ残ったか。ガイドの方に尋ね、答えに感動した。
 「水気を含む橅は、材木としての価値がありません。それで金にならない橅林は救われたのです」
 美や真理は無駄の中にあり、富とは無縁だと思っている私に自信を与えてくれた言葉だった。役立たずと見捨てられた橅は森に水を貯え、海山の生きものの命の源流だったのだ。

アトリエの庭での梟とのやりとり

 餌を置くと、飛びつきもせずじっと見つめ、「早くお食べ」と急ぐ私には目もくれない。機が熟すと身を躍らせて、目にもとまらぬ間に餌は丸のみにされている。夜の森でたった一人。自力で生き物と対決する猛禽の孤独。軽々しさのない堂々としたこの鳥の姿勢に敬服した。

幼い日々を過ごした、八十年前の前の東京に思いを馳せて

 今、人は経済と効率を求め慾望充足の為の文明に埋もれ、人間が生き物だという事を忘れ、その文明に飼いならされた家畜に変わった。
 不況だと云い乍ら次々に建つ巨大なビル。グルメとブランドに群がる人々。そんな大金の一割をさけば森や草原を作れる筈。車の為の道路は仕方がないが、人の歩く道には土を返して貰いたい。ぬかるまない土位わけなく合成出来る筈だ。草が生えたらなおいい。雨は大地にしみ、酸欠で死にたえた地中の虫達も生命を吹き返すに違いない。土を踏む足は、森で暮らした頃のあの柔らかい感性を呼び戻すだろう。コンクリート詰めにされた人間は自分の脳で考えず、コンピューターの言うなりの無感動、無機質な生き物になり始めた。日本人はわずかの間に壊れて了ったようだ。

街路樹について
 東海道の松並木、日光の杉並木。あの堂々たる姿は、祖先の造った風景だ。
 ブラジル北部、アマゾンの河口の都市ベレンで見たマンゴーの巨木の並木。イタリア、トスカーナのカサマツの並木。ギリシャの白亜の街で見たミモザの街路樹。様々な国を旅して、「風景は思想だ」と私は確信した。風景は自然を取捨選択し、その国の人々が作り上げた作品なのだ。
 表参道の欅、神宮外苑の公孫樹(いちょう)、千鳥ヶ淵の桜...。こんな美しい財産を忘れてはいけない。

日々のニュースに腹を立てることが多くなり、自らを落語の“小言幸兵衛”にたとえて
 母親が吾が子を川に投げ込み、子が親を殺し、叱られた腹いせに家に火をつける中学生。教師も警官も入り乱れての犯罪が、毎日のニュースで知らされる。貧しさや、うらみからのかつての犯罪には、あわれさがあったが、今の人間の犯行は自己中心の無機質なゲームに似て、不気味である。かつて世界の人の心を打った日本人の礼節とつつしみ深い品性は、今はもうない。日本人の崩壊を見つめながら晩年を迎えなければならない私のさだめが、無念でならない。

散り行く、紅葉の葉をみつめながら

 自然は生きた日々の恨みつらみを消し、決して老残の醜さを見せない。死を迎える時の、あの紅葉の華やぎは命の輪廻を讃える神の仕業だと思う。
 無心に生きるものには幸せも不幸せもない。私もやっと、苦しみ傷ついたものの美しさに気付く時が来たようだ。
旬野菜について

 四季の野菜が、一年中溢れている此の頃のマーケット。旬の野菜が出た時のときめくような季節の喜びは、もう日本から消えて了った。母の作る季節の料理は、昔の子供に四季の移りを教えてくれた。土筆や筍は春。枝豆や西瓜を見れば、蝉の鳴く夏の日の暑さが甦り、栗や松茸に会えば、山茶花のこぼれる庭に流れる、焚き火の匂いまでまざまざと浮かぶのだ。
2001年、83歳で解離性動脈瘤で倒れるが奇跡的に治癒。良寛の詩に助けられる

 〈山かげの岩間を伝う苔水のかすかに吾は澄みわたるかも〉

 〈夜もすがら草の庵にわれをれば杉の葉しぬぎ霰降るなり〉

 〈世の中のまじらぬとはにあらねども一人遊びぞ吾はまされる〉

 山中の庵で孤独に徹し、忍び寄る老いを見詰めながら苛立たず、騒がず、素直に運命を受け入れて生きた良寛。柔らかな心情の滲み出た貴重な誌が私を救い、その脱俗の魂が山の苔水のように全身にしみ渡るのを感じて、私は蘇生したのだった。
画集:命といふもの第2集、最後の文章にて

 生涯を共にした気難しい日本画は私に雑念を抑え考える事を教え、抑制と静謐な美を気付かせた。そして無私と集中を叩き込んでくれたのも、古風な日本画であった。

最後に堀文子さんの略歴を。
1918年7月2日、東京都麹町区平河町(現千代田区平河町)に生まれる。
1940年、女子美術専門学校(現女子美術大学)を卒業。作品発表ととともに、記録画、本の挿絵や装丁の仕事に携わる。
1946年、28歳で外交官の箕輪三郎さんと結婚。
1960年、41歳で夫を失う。
1974年、56歳で多摩美術大学教授となる。1999年まで。
1988年、70歳を越えて、イタリア中部郊外の古い町、アレッツオにアトリエをかまえる。その後も、アマゾンの熱帯雨林、メキシコのタスコ、マヤ遺跡を取材旅行。
80歳を越えてもなお、ペルーのインカ文明、ネパールのヒマラヤ山麓に取材旅行を重ねる。