2012年12月25日火曜日

熊たちの振る舞い|坂巻正美作品展示場にて(新潟市北区高森)

7月14日()より開催されてきた「芸術祭2012」が12月24日(月・)で会期終了を迎えました。私たちの暮らす身近な地域にアートが再解釈を与えてくれ、新鮮な思いで新潟を見て回り楽しむことが出来ました。

ファイナルイベントということで、いろいろと開催されていた中、1223日()に「熊たちの振る舞い」と題したパフォーマンスが新潟市北区高森の坂巻正美作品展示場にて行われ、見に行ってきました。

熊のお面をつけた見学者のスナップ写真が玄関に貼ってありました。

11:00スタート。
薬師庵にて、堀川久子さん(舞踏家、水と土の芸術祭ディレクター)の「熊を舞う」


続いて、高森神楽保存会の「高森獅子神楽」

獅子と向かい合っているのは天狗です。

獅子舞の中には、4~5人の男性が入って迫力満点。

獅子に頭を噛まれるのは、無病息災や魔除けの意味があるという。

最後に鈴木正美さん(新潟大学人文学部教授)の「音の胎内巡り」サックスによる即興演奏

坂巻さんの作品内をぐるりと一周。



















そして、高森地区の皆様からのお餅とお雑煮振る舞い!

自治会長さんから一言。「お餅とお雑煮の振る舞いをぜひどうぞ!」







つきたてのお餅をいただきました。そして、地域のおばちゃん自家製の漬け物も「食べた? 食べな!」といただきました。これがまた美味しかった〜。12月も末、寒いはずの屋外もこころなしかあたたかく感じられました。







今回の会場は新潟市北区高森にある薬師庵。芸術祭でこういった機会がなければ、訪ねる機会はなかったであろう場所。

芸術祭をきっかけに、坂巻正美さんが熊を題材に作品を制作。そこにはもともと300年以上も続く高森獅子神楽がありました。そして、今回のパフォーマンスでは新潟在住の堀川久子さん、鈴木正美さんが舞踏と音楽で再解釈。

坂巻正美さんは北海道教育大学の准教授。北海道のアイヌや東北地方のマタギに伝わる狩猟技術や思想を研究している方です。新潟にとってはある意味で、「」からの視点。また、堀川さんや鈴木さんはそれぞれ新潟で活動する「」からの視点。そこに高森地区の皆さんの「」の視点。それぞれが交差する場所に今回のイベントがあったように思います。

芸術祭をきっかけに、各地域に脈々と伝わる、または静かに佇む宝ものに再び光があたったのではないでしょうか。歴史や祭り、場所や記憶、街並みや自然など、それらはアートによって再解釈されて、私たちの目の前に再び現れてきました。そして、そこには地域の人、観光で来た人、新潟の人が集いゆるやかに繋がっていきました。

そんな半年間は新潟市にとって、「非日常(祭り)」が「日常化」した期間だったように思います。さて、芸術祭は終わりました。私たちは日常へ戻っていきます。そこでは、それぞれが暮らす地域と関係し続けること、それぞれが暮らす日常を楽しむ視点を持ち続けられるかどうかが試されるのではないでしょうか。

やや大きな話になりますが、国や行政に頼る経済の拡大や消費による幸福よりも、既にあるものを組み合わせ直し、解釈し直して得られる幸福を選ぶのかどうか、引き受けられるのかどうかが私たち一人一人に問われているようにも感じました。

「水と土の芸術祭2012」は私にとっていくつもの楽しみを与えてくれました。友人・知人の方々も運営側スタッフとして働いていました。限られたスタッフの中、忙しい長丁場を切り盛りしていました。きっと年末年始も休むことなく後片付けや報告作りなどに追われるんだろうなぁ…。終わったらゆっくり休んでくださいね。本当にありがとうございました。お疲れさまでした。


高森の大欅。樹齢約1200年。根回り12.4m、高さ20m。

※2013年1月20日追記
新潟日報朝刊・2013年1月8日付けより。
芸術祭の来場者数は61万6千人。(前回を6万人上回った。)
うち、有料施設・有料イベントへの来場者が13万7千人。
入場パスポートの販売は前回の2万8千枚を下回る見通し。


2012年12月22日土曜日

「ダンス・ダンス・ダンス」友人の薦めで村上春樹を読み進める


ニヒリズムに陥りがちな時代に、虚ろな希望を取り戻すかのような物語だった。

とは言ってもこの物語が発表されたのは、1988年のこと。村上春樹さん39歳のとき。

現在とも、私のいまとも状況は違った背景で書かれている。しかし、ところどころで「あぁ、そうそう俺もそんなこと思ったことある。よく言ってくれた」といった箇所があった。私がこれまで体験してきたことの中でも、言葉にならなかったものをするすると表現してくれているようにも感じて、爽快感すらあった。また、登場人物の気持ちとシンクロしていく中で、「癒し」のような効果もあるのではと思った。物語によって癒されるということもあるんだな、と。

話は飛んで...。読後、たまたまぱらぱらと手に取った本がある。『西洋哲学史 近代から現代へ』熊野純彦著(岩波新書)である。いまだ『ダンス・ダンス・ダンス』の物語にひっぱられている私に、ぴったりと中るような言葉。



「生は夢と行動のあいだにある」
「夢みるときのように、過ぎ去ったものの重みのすべてを未来に懸けて行為するとき、ひとは真に自由であることになるだろう。」
「夢みることと、行動することとのあいだに、現実の生がある。」
(「第13章 生命論の成立」フランスの哲学者アンリ・ベルクソンを説明するところです。)

なんだかこれって『ダンス・ダンス・ダンス』の読後感とも重なるな。私の理解力では哲学の本はほとんど理解できなかったので、この章に目を通したのみです...。村上春樹さんがこの物語にどのような哲学的メッセージを込めたのかはわかりませんが、私には近い印象を与えました。


以下は、『ダンス・ダンス・ダンス』で印象に残った箇所のメモです。
─────引用1─────
それはある女性誌のために函館の美味い食べ物屋を紹介するという企画だった。僕とカメラマンとで店を幾つか回り、僕が文章を書き、カメラマンがその写真を撮る。全部で五ページ。女性誌というのはそういう記事を求めているし、誰かがそういう記事を書かなくてはならない。ごみ集めとか雪かきとかと同じことだ。だれかがやらなくてはならないのだ。好むと好まざるとにかかわらず。
僕は三年半の間、こういうタイプの文化的半端仕事をつづけていた。文化的雪かきだ。

─────引用2─────
雪が降れば僕はそれを効率良く道端に退かせた。
一片の野心もなければ、一片の希望もなかった。来るものを片っ端からどんどんシステマティックに片付けていくだけのことだ。正直に言ってこれは人生の無駄遣いじゃないかと思うこともないではなかった。でもパルプとインクがこれだけ無駄遣いされているのだから、僕の人生が無駄遣いされたとしても文句を言える筋合いではないだろう、というのが僕の到達した結論だった。我々は高度資本主義社会に生きているのだ。そこでは無駄遣いが最大の美徳なのだ。政治家はそれを内需の洗練化と呼ぶ。僕はそれを無意味な無駄遣いと呼ぶ。考え方の違いだ。でもたとえ考え方に相違があるにせよ、それがとにかく我々の生きている社会なのだ。それが気にいらなければ、バングラデシュかスーダンに行くしかない。

─────引用3─────
僕は揺れる蝋燭の炎をしばらく見ていた。僕にはまだ上手く信じられなかった。「ねえ、何故僕のためにわざわざそんなことするんだ? わざわざ僕一人のために?」
「ここがあんたのための世界だからだよ」と羊男は当然のことのように言った。「何も難しく考えることなんてないのさ。あんたが求めていれば、それはあるんだよ。問題はね、ここがあんたのための場所だってことなんだよ。わかるかい? それを理解しなくちゃ駄目だよ。それは本当に特別なことなんだよ。だから我々はあんたが上手く戻って来られるように努力した。それが壊れないように。それが見失われないように。それだけのことだよ」

─────引用4─────
僕は暗闇のなかで溜め息をついた。
オーケー、これは現実だ。間違いない。繋がっている。

─────引用5─────
「あまり仕事が好きじゃないの?」
僕は首を振った。「駄目だね。好きになんかなれない、とても。何の意味もないことだよ。美味しい店をみつける。雑誌に出してみんなに紹介する。ここに行きなさい。こういうものを食べなさい。でもどうしてわざわざそんなことしなくちゃいけないんだろう? みんな勝手に自分の好きなものを食べていればいいじゃないか。そうだろう? どうして他人に食い物屋のことまでいちいち教えてもらわなくちゃならないんだ? どうしてメニューの選び方まで教えてもらわなくちゃならないんだ? そうしてね、そういうところで紹介される店って、有名になるに従って味もサービスもどんどん落ちていくんだ。十中八、九はね。需要と供給のバランスが崩れるからだよ。それが僕らのやっていることだよ。何かをみつけては、垢だらけにしていくんだ。それを人々は情報と呼ぶ。生活空間の隅から隅まで隙を残さずに底網ですくっていくことを情報の洗練化と呼ぶ。そういうことにとことんうんざりする。自分でやっていて」

─────引用6─────
僕はユキの手を握った。「大丈夫だよ」と僕は言った。「そんなつまらないこと忘れなよ。学校なんて無理に行くことないんだ。行きたくないなら行かなきゃいい。僕もよく知ってる。あれはひどいところだよ。嫌な奴がでかい顔してる。下らない教師が威張ってる。はっきり言って教師の八〇パーセントまでは無能力者かサディストだ。あるいは無能力者でサディストだ。ストレスが溜まっていて、それを嫌らしいやりかたで生徒にぶっつける。意味のない細かい規則が多すぎる。人の個性を押し潰すようなシステムができあがっていて、想像力のかけらもない馬鹿な奴が良い成績をとってる。昔だってそうだった。今でもきっとそうだろう。そういうことって変わらないんだ」
「本当にそう思う?」

─────引用7─────
「システム」と彼は言った。そしてまた耳たぶを指でいじった。「もうそういうものはあまり意味を持たないんだよ。手作りの真空管アンプと同じだ。手間暇かけてそんなもの作るよりはオーディオ・ショップに行って新品のトランジスタ・アンプを買った方が安いし、音だって良いんだ。壊れたらすぐ修理に来てくれる。新品を買う時には下取りだってしてくれる。考え方のシステムがどうこうなんて時代じゃない。そういうものが価値を持っていた時代もたしかにあった。でも今は違う。何でも金で買える。考え方だってそうだ。適当なのを買ってきて繋げばいいんだ。簡単だよ。その日からもう使える。AをBに差し込めばいいんだ。あっという間にできる。古くなったら取り換えりゃいい。その方が便利だ。システムなんてことにこだわってると時代に取り残される。小回りがきかない。他人にうっとうしがられる」
「高度資本主義社会」と僕は要約した。

─────引用8─────
君と話していると、だんだんそういう感じがしてくる。細かいことにいちいちこだわるくせに、大きなことに対しては妙に寛大になる。そういうパターンが見えてくる。面白い性格だ。そういう意味ではユキに似てるよ。生き延びるのに苦労する。他人に理解されにくい。転ぶと命取りになる。そういう意味では君らは同類だよ。

─────引用9─────
「世の中にはいろんな人生がある」と僕は言った。「人それぞれ、それぞれの生き方。Different stroks for different folks.」
「スライとザ・ファミリー・ストーン」と五反田君はぱちんと指を鳴らして言った。同世代の人間と話していると確かにある種の手間が省ける。



2012年12月21日金曜日

詩歌俳柳壇ニュース「喜怒哀樂」



新潟市東区の印刷会社、ミューズコーポレーションさんが発行する詩歌俳柳壇ニュース「喜怒哀樂」をぱらぱらと眺めるのを楽しみにしている。全国から寄せられる短歌、俳句、川柳を斜め読みするのが面白い。

その中に「新潟ぶらり」というコーナーがあり、スタッフが毎回、新潟のあちこちを歩き寄稿している。今回は「東区の工場夜景」。

最後の段落が印象的でした。

~以下、引用~
以前視聴した「新日本風土記」(NHK)で、夜景があたたかいのは、それが誰かがつけた灯りだから——と言っていたのを思い出した。一つひとつの光に、それぞれの生活があることを想像する。あの光のなかで、どんな人が、どんなことを感じて生きているのだろう・・・。工場の光もまた、私たちがいまこうして生きていることの証しなのだ。身を切る寒さのなか、白い息を吐きながら、働く光の美しさを暫くの間眺めていた。
~引用終わり~

知らない街を車で走るとき、いつもと違ったジョギングコースを走るとき、私もそんなことを思いながらいる。目を凝らし、耳を澄ませて、一人一人の物語を感じ取ろうとするその感性に共感した。

2012年12月20日木曜日

山口幹文さん一管風月コンサート 大山治郎コレクション美術館

砂丘館でのコンサートの翌日、1216日()は燕市の大山治郎コレクション美術館でコンサートでした。株式会社曙産業(燕市)の会長・大山治郎さんが開設した私設美術館です。

会場の飾られた絵画とともに演奏を楽しむことができる贅沢なコンサートでした。

六朝館というビストロ&カフェが併設されています。
絵画に囲まれた贅沢な空間。
途中、佐藤さんのチェンバロソロでフィオッコのアダージョが演奏されました。
この日も演奏&トークで会場が沸きました。

ステージ背後の絵画に写り込む山口さんの背中。
終了後、CDにサインを求められる山口さん。
山口さんと記念撮影。

2012年12月19日水曜日

山口幹文さん一管風月コンサート 砂丘館

1215日()に砂丘館で行われた山口幹文さん(鼓童)の一管風月コンサートに行ってきました。会場の物販でLIFE-mag.を販売させて頂きました。たいへんありがたい機会でした。感謝です。

今回は、佐藤世子さんのチェンバロの伴奏とのコンサートでした。
約90分の演奏は、日本各地、世界各国の伝統芸能に学び、自身の楽曲に取り入れたものでした。その楽曲の制作背景を山口さんの軽快なトークで聴くことが出来てより興味を持って楽しめました!

会場は新潟市中央区西大畑町の砂丘館(旧日本銀行新潟支店長役宅)の蔵です。

蔵いっぱいに笛の音色が響きます。
~入場~
1.黄色い村の門(アイルランドの民謡をもとに山口さんが作曲)
2.貝殻節(山陰地方の民謡から。漁師たちの労働歌をお座敷で芸者さんと一緒に謡っていたもの)
3.(しずか。源義経の愛人であった静御前をもとに山口さんが作曲)
4.オヨーダイ(モンゴル民謡より)
5.私を泣かせてください(オペラ・リナルドより)
6.ミリャン アリラン(朝鮮民謡より。アリランとうのは「仲間たちを励ましながら、峠を越える」という意味がある。昨年の震災以後に日本への応援歌として演奏するようになった)
7.山唄(津軽山唄をもとに。山口さんが32年前にはじめて地方に芸能を習いにいった場所)
8.愛しきものへ(自宅の窓から落ち葉が散る様子を見ていたところから着想。葉が落ちて、新しい命が生まれるところに命の循環がある。それは喜ばしいこと。途中にアイヌの歌が入る。アイヌのアニミズムを信仰の意味が込められている)

~アンコール2曲~

山口さんが演奏で使用する笛の数々。

こちらはチェンバロ。15世紀頃に確立した歴史の長い楽器です。

2012年12月18日火曜日

五感のすべてが笛の音に|月刊「鼓童」2012年12月号


月刊「鼓童」の中で、「五感のすべてが笛の音に」という山口幹文さんの文章がとてもいいです。LIFE-mag.インタビューでも答えていただいた内容と重なるのですが、こちらの会報では、山口さん本人の文章でその表現をしています。

美醜に関わらず、心の中に多彩な風景を持つべきです。そのためには音楽に限らず、五感に訴えるすべてのものに触れてください。苦手な分野のものでも、その気になって目を向ければ何かを語ってくれるはずです。そしてその対象に関する好悪の原因を、できるだけ深くはっきりと探ること。これは自分の本質を理解し、ひいては個性や独創性を確立する一つの方法にもなります。

しかし、なんと言っても肝心なのは学ぶ姿勢でしょう。物事を身につけるにあたって、最初の段階では個性や独創性などというものは邪魔になるだけです。上達すれば、いずれ表現者として独自の色合いが出てくるもの。まずは謙虚な心持ちで取り組み、意欲を持って吸収することです。

この会報は鼓童の会に入会すると送られてきます。「友の会」は入会金1,000円、年会費3,000円から。http://www.kodo.or.jp/friends/index_ja.html

2012年12月17日月曜日

選挙終了と『3・11を読む』松岡正剛 著 平凡社 刊


昨日の選挙は、子どもをおんぶしながら近所の小学校へ。「明るい選挙」という名札をつけた係員と、投票所の雰囲気のギャップが大きいように感じました。すでに出た「結果」に組み込まれている自分の一票がどのような現実を見せてくれるのか、自分なりに注視していきたいです。

写真の本は8月に買ってちまちまと読んでいました。内容のひとつひとつが深淵で、なかなか読了せずでした。松岡正剛さんが「本」で案内する震災以後論です。ノンフィクション、原子力発電の技術、東北の歴史的背景、震災後の思想など、毎項一冊の本から独自の書評(千夜千冊)を展開していきます。

その中の一つに新潟日報社特別取材班『原発と地震 柏崎刈羽「震度7」の警告』2007年1月発行も取り上げられています。「原発と地震の関係を最も深く抉ったドキュメント」と評しています。

また、『平泉藤原氏』工藤雅樹 著の項では、源義経のチンギス・ハーン説の一文も。ちょうど先週末の鼓童・山口幹文さんのコンサートの一曲、「オヨーダイ」(内モンゴル民謡)の秘話でも言及があったところでした。

定価1,890円。430ページに渡り松岡編集工学の奥深さを見られます。お値段以上です。本の海への羅針盤にぜひ。